江戸時代末期、すなわち幕末の有名人と言えば、西郷隆盛だったり、坂本龍馬だったり、桂小五郎だったり、いろいろいますが、その多くがあまり身分が高くない人です。
この時代の殿さまで有名なところと言えば、島津斉彬、島津久光、徳川慶喜といったところでしょうか。松平春嶽や山内容堂といったところも、まずまず有名ですが、西郷隆盛や坂本龍馬と比較すると知っている人はとても少ないですね。
江戸時代、藩は300ありました。だから、それぞれの藩に300人の殿さまがいたわけです。でも、現在、当時の殿さまのことを知っている人がとても少ないので、当然のことながら、彼らが、幕末、明治以降にどのような暮らしをしていたのか、知らない人の方が圧倒的に多い状況です。
最後の藩主のことを1冊にまとめた本がないかと思って、本屋で探していると、「江戸三00藩 最後の藩主」という本を見つけました。この本には、江戸300藩の最後の藩主のことが大雑把にまとめられていて、ちょっと調べるには、ちょうど良い分量です。
今回の記事では、この本の中から、有名ではないものの幕末維新史に影響を与えた最後の藩主を紹介します。
譜代なのに幕府を裏切った淀藩
淀藩の最後の藩主は、稲葉正邦(いなばまさくに)です。淀藩は譜代大名なので、幕府に忠誠を誓う立場にあったのですが、新政府軍と幕府軍との間で鳥羽伏見の戦いが起こると、最初の2日間は様子見をし、3日目に幕府の旗色が悪くなると、淀城の城門を閉ざし、幕府の敗残兵の入城を拒みました。
これは幕府軍にとっては結構な痛手です。
さらに藩主の稲葉正邦は、江戸で老中を務めており、徳川慶喜が新政府に対して恭順の姿勢を示したことから、幕閣の意見を恭順にまとめ上げて、江戸城無血開城に貢献しています。稲葉正邦は、無名な殿さまですが、密かに歴史に残る大仕事をしていたのです。
撤退する幕府軍に対岸から砲撃した津藩
津藩の最後の藩主は、藤堂高猷(とうどうたかゆき)です。淀藩と同じく譜代大名でしたが、鳥羽伏見の戦いで幕府を裏切ります。開戦から3日目に新政府から勅使が来訪し、戦闘に加わるように求められたことから、4日目の正午に淀川沿いを撤退する幕府軍に向かって、対岸から砲撃を浴びせました。
その後も、新政府軍として江戸、東北に転戦し、賞典録2万石を得ています。
唯一取り潰された請西藩
房総地方にあった請西藩(じょうざいはん)の最後の藩主は林忠崇(はやしただたか)です。
江戸城が開城された後、国元に戻った忠崇は、幕府の遊撃隊の説得で、新政府軍と戦うために行動を共にします。一時は箱根の関を新政府軍から奪い返す活躍をみせ、東北に転戦しましたが、会津藩が新政府軍に敗れると仙台で降伏しました。
その後、請西藩は、戊辰戦争で唯一取り潰された藩として歴史にその名を刻みました。
財政難に苦労して犯罪に走った福岡藩
福岡藩の最後の藩主は、黒田長知です。長知は、津藩の藤堂高猷の子で、黒田家に養子に入りました。戊辰戦争の時は、新政府軍に加わり、関東や東北に2千人以上の兵をだし、その後、賞典録1万石を得ています。
しかし、明治維新後、藩の財政が窮乏したため太政官札の偽物を作ったものの、それがばれてしまい、責任者6名が死罪、長知は閉門・免職となりました。
明治時代にできた琉球藩
沖縄県の琉球藩は、もともとは琉球王国でした。最後の国王は尚泰(しょうたい)です。当時、琉球王国は独立国でしたが、清国との朝貢関係を続けていたため、明治政府がこれを止めるように勧告します。しかし、尚泰がこれを断ったため、東京に連れ去り、1879年に沖縄県を置きました。
家老の山田方谷に救われた松山藩
松山藩の幕末の藩主は、老中となった板倉勝静(いたくらかつきよ)です。
板倉勝静は、鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜とともに江戸に帰り、日光で謹慎し、その後、新政府軍によって宇都宮城に移されます。ところが幕府軍の大鳥圭介が宇都宮城を奪還した時に解放され、その後、東北、函館と転戦することになります。
その頃、国元では、家老の山田方谷(やまだほうこく)が藩を守るために新政府に恭順の姿勢を示し、城を明け渡しています。また、函館にいる板倉勝静を連れ戻すためにプロシャ船を1万ドルで雇って派遣し、東京で謹慎させました。その甲斐あって、板倉勝静は安中藩預かりとなり、藩も板倉勝弼(いたくらかつすけ)が継ぎ、再興されました。なお、最後の藩主は、板倉勝弼です。
この他にも名前は知られていませんが、幕末維新史に重要な役割を果たした多数の藩主が、「江戸三00藩 最後の藩主」には掲載されています。藩主の数が多いので、一人あたりのページ数は少ないですが、それぞれの藩主の概要を知るのに便利です。

- 作者:八幡和郎
- 発売日: 2004/03/17
- メディア: 新書