手習いに上げて我が子を見違える
これは、江戸時代に自分の子供を寺子屋に通わせた親が、我が子の急速な成長に驚いている様子を詠んだ川柳です。
江戸の子供たちは、5歳から8歳になると寺子屋に通い「読み、書き、そろばん」を習いました。多くの子供たちが寺子屋に通っていたので、当時の江戸市中の識字率は男女ともに70~80%だったそうです。この識字率の高さはヨーロッパ諸国よりもはるかに高い水準でした。
実用的な教育が中心
寺子屋は、小学生くらいの子供に文字を教える程度の初等教育しか行われていなかったように思われることがありますが、そうではありません。ノンフィクション作家の中江克己さんは、著書の「江戸の躾と子育て」で、寺小屋はビジネススクールだったと述べており、子供たちは、実用的な多くの知識を身につけたから、世の中に出て仕事をするにしても、暮らしていくのにも困ることはなかったと指摘しています。
読み、書きだけでなく、そろばんも教えたあたりに寺子屋が実用性を重視した教育機関であったことは、なんとなく想像できます。
子どものなかには、商家へ丁稚として奉公し、やがては手代、番頭と出世することを目標にする者もいた。むろん、なかには独立して店をかまえる者もいるし、出世がかなわず、商人になる例もあった。
いずれにせよ、そうした子どもたちが寺子屋で学んだのは『商売往来』だった。これは商取引に必要な用語や数字、貨幣の単位、商品名、商人の心得などが記されており、商人を志す子どもにとっては、必須科目になっていた。
(173~174ページ)
江戸時代は、士農工商と身分がきっちりと区別されていました。
だから商人の子供は、将来、商人として生きていくことが義務付けられていたので、そろばんを使った算術を学ぶことは当たり前のことだったのでしょう。身分が区別されている社会は好ましいことだと思いませんが、目標をしっかりと定めた教育は、知識の習得にとっては良い方向に働いたのではないでしょうか。
また、寺子屋では、実用面だけでなく商人としての心得も教えられました。
- 浪費せず、つつましく暮らすこと
- 挨拶や応対に誠意を尽くし、顧客の心をつかむこと
- 人をだまして暴利をむさぼってはいけないこと
農民の子供は税務を学んだ
寺子屋で、そろばんを習ったのは商人の子供だけではありませんでした。農民も、算術の知識が必要とされたので、その子供たちも、寺子屋でしっかりとそろばんを習いました。
農民の子供たちが使った教科書は、農業往来、百姓往来、田舎往来などです。農地や農具の使い方に関すること、田畑の工作、穀物の栽培、農業労働についての知識、農民としての心がまえが教えられたそうです。
時代劇を見ていると、江戸時代の農民は、お代官様に命令されるまま、嫌々百姓仕事をしていたように思ってしまいます。朝から晩まで何も考えず、ひたすら畑を耕したり田植えをしていたんだと。まるで家畜のようなイメージが、当時の農民にはあります。
でも、実際は、農民もしっかりと勉強をしていたので、頭脳労働に従事することもあったのです。
農村では毎日の農作業のほか、年貢を納めなければならないし、突如として飢饉や洪水などに襲われることもある。農民の生活は、安定していたとはいいがたい。
そうしたなかで、農民たちは必要に迫られて文字を学習した。とくに村役人など、村の運営にたずさわる立場ともなれば、領主からの触書の伝達をはじめ、年貢納入の諸書類の作成、訴訟書類の取りまとめなどをしなければならない。そのために「読み、書き、そろばん」は必ず身につけておかなければならなかった。
(181~182ページ)
江戸時代に年貢という形で税金を納めていたのは農民たちでした。
だから、彼らは税務の知識を身につけておかなければならなかったのでしょう。役人に好き放題、年貢を取られるだけではなかったんですね。自然災害による不作の年もあったでしょう。その時には、役人と交渉して年貢の延納を認めてもらったり、場合によっては減税を要求することもあったのかもしれません。
きっと、江戸時代の農民たちは、税務の専門家でなければ生きていけなかったはずです。
学ぶことの重要性を現代人よりも理解していた?
さて、江戸時代の子供たちも、現代の子どもたちと同じように男の子はヒーローに憧れていました。桃太郎に憧れる男の子もいましたし、特に牛若丸は男の子に大人気だったようです。
こういったヒーローに憧れるのはよくわかりますが、江戸の子どもたちには、物くさ太郎も人気がありました。
物くさ太郎の主人公は、何をするにも面倒くさくて、毎日、寝て暮らしていました。
とにかく怠け者で、食べようとした餅を落としたのに、それを拾うのが面倒だからと放置。3日後に地頭が通りかかったので、餅を拾ってもらったというのですから、怠け者ぶりが板についていますね。
江戸の子供たちは、皆、物くさ太郎のように毎日寝て暮らすことを夢見ていたのでしょうか?
現代人には、こういう夢を見ている人は非常に多いですよね。宝くじに当たったら仕事をやめる、株式の配当や預金の利息だけで一生食べていきたい、そんなことを一度は考えたことはないですか。
江戸時代にも、そんなことを考えていた人はいたでしょう。でも、物くさ太郎が子供たちに人気があったのは、そういうことが理由ではありません。
物くさ太郎は、ある時、結婚相手を見つけるために京都へ出かけます。京都で美女に出会った物くさ太郎は、彼女に謎かけを挑みます。物くさ太郎は、次々に謎かけを解き、さらに歌のかけあいでも、よどみなく返歌を詠んでいきます。その教養に美女は驚き、ついに物くさ太郎の求愛を受け入れます。
そして、物くさ太郎の連歌の才能は帝にも認められ、宮廷に召し出されます。その後、彼は貴族の出身であることが分かり、出世していきます。
物くさ太郎は寝てばかりいて、なにもしなかったように見えるが、じつは幼いころ、読み書きや歌などを学んでいた。だからこそ、都で美女との謎かけや歌のかけあいができたのである。『物くさ太郎』の話は、学ぶことの重要性を示唆する教訓的な物語だった。
(197ページ)
現代では、お受験で有名幼稚園や有名私立小学校に入学し、そのまま中学校、高校、大学とエスカレーター式で進学していって、一流企業に就職させようとする風潮があります。
これは一見すると、物くさ太郎の教訓と同じように思えますが、まったく異なっています。
物くさ太郎の話は、幼いころに教養を身につけて、それを大人になった時、あらゆる場面で活かそうとするものです。これに対して、お受験は、幼いころに努力することで将来の安定が保証されるから、我慢して勉強しなさいというものです。
同じ将来に役立てるためではありますが、前者がいかなる事態になっても切り抜ける力を身につけようとするものであるのに対して、後者は自分の力ではなく寄らば大樹の陰という生き方を選択している点で異なります。
身につけた知識を活かして生きていく。
江戸時代の寺子屋の教育は、まさに生きる術を身につける場だったのです。
- 作者:中江 克己
- 発売日: 2007/04/01
- メディア: 新書