小学校の時の学校給食って美味しかったですか?
僕が通っていた小学校だと、美味しい時もあれば、美味しくない時もありましたね。子供の頃は、好き嫌いも多かったので、まずいと思うときは、自分が嫌いなおかずだったのですが。
好きな給食は、カレーライスのような子供受けするものでしたね。揚げパン、フルーツポンチ、ドライカレー、竜田揚げなんかも好きでした。逆に嫌いだったのは、レバーだらけのおかず、ホウレン草だらけのおかず。
総合的に評価すれば、それなりに美味しかったと言えるでしょう。
昔、大阪の学校給食は、非常にまずかったとのこと。そう語るのは、作家の東野圭吾さんです。
入学初日は美味しい給食だった
東野さんの著書「あの頃ぼくらはアホでした」によると、大阪の小学校から出る残飯の量は、他の都道府県に比べて多いのではないかということです。
これは東野さんの推測なので、実際はどうなのかわかりません。ただ、東野さんは、小学校の時の学校給食が非常にまずかったので、よく食べ残していたそうです。
東野さんには2人のお姉さんがいて、小学校に上がる前、給食がまずいということを頻繁に聞かされていました。だから、入学して最初の給食の時は、一体、どんな給食が出るのか不安だったとのこと。この最初の給食の時は、保護者も参観しており、児童に配られた給食は、見た目には問題なさそうなものでした。
記念すべき小学校第一回目の給食メニューを、僕はほぼ完璧に覚えている。コッペパンが二つ、真っ白なミルク、暖かい野菜スープ、缶詰のミカンというものだった。パンの傍らには、紙に包んだ四角いマーガリンが添えられていた。見たところは、さほど不味そうではない。(210ページ)
東野さんが最初に手をつけたのは野菜スープでした。とてつもなくまずいとしたら、これに違いないと思ったからです。でも、一口すすってみたところ、味はまあまあ。パンも焼きたてのフワフワな感じで、舌触りも良かったそうです。
初めての給食の感想は、「あー、おいしかった」といえなくもない味で、これなら、明日以降も問題なさそうだと思って帰宅しました。
おかずの中でにょろにょろと動く異物
初めての給食の感想をお姉さんに話すと、返ってきた答えは、「甘いな」というものでした。
その意味ありげなお姉さんの言葉を理解したのは、翌日の給食の時でした。自分の前に配られた給食は、泥まみれの石ころに混ざって紙屑が入っているおかず。昨日は温かいスープが入っていたお皿が、今日はひんやりとしています。
石ころをスプーンで突いてみると、それは煮た芋やニンジンで、紙屑に見えたものは菜っ葉でした。不気味な臭いを発するその給食を見て、一気に食欲がなくなったそうです。中には、泣きだす女の子もいたとか。
この日から、東野さんにとって、給食は楽しみでもなんでもなくなったそうです。
1年生の3学期のある日。
給食の時間に事件が起こりました。
東野さんは、配られたタマネギやジャガイモが入った野菜のスープにスプーンを突っ込みかけた時、その中で何かが動いているのに気づきました。動いていたのは、長さ2センチほどのミミズ。すぐに東野さんは、先生にスープを見せに行くと、「早く捨てなさい」と言われ、その通りにしました。
そして、周りの友達が不思議そうにしているので、「ミミズ」と答えます。当然、その日のおかずに手をつけたクラスメートはいませんでした。
まずい給食は変わらず
ミミズ事件の後、きっと、明日からの給食は美味しくなるはずだと期待した東野さんでしたが、まずい給食に変化はありませんでした。
どうやら先生が、ミミズ事件の報告を怠ったようです。
給食がまずいまま改善されないので、東野さんは、毎日のように給食を残していたそうです。パンなんかは、カバンの中に入れて何日も放置していたので、パンにカバンの匂いが着いていたとのこと。また、反対にカバンにはパンの匂いが着いており、ひっくりけせば、パンの粉が出てくることもあったそうです。
これは、男の子なら経験のあることですね。僕なんか、机の中にパンを入れっぱなしにしていたこともあります。お道具箱と机に挟まれたパンは、ペタンコになってましたね。懐かしい思い出です。
大量の残飯の行方は?
給食を残す場合、パンは上記のようにカバンやランドセルに入れて自宅に持って帰っていたわけですが、食器に盛られたおかずは、残しても持って帰りません。東野さんが通っていた小学校では、残飯は、アルミ容器に戻していたそうです。
食器に盛られているおかずを見て、食べるに値しないと判断したら、迷わずアルミ容器に入れていたとのこと。ミルクも同様です。東野さんだけでなく、多くの児童が、給食を捨てていたため、アルミ容器の中はあっという間に残飯でいっぱいに埋まります。給食の時間は、児童たちにとって、大量の残飯を作る時間でしかなかったというのですから、全然楽しくなかったでしょうね。
小学校で製造された残飯の行方はどうなっていたのでしょうか?
東野さんが通っていた小学校では、養豚業者が残飯を回収に来ていました。毎日、ドラム缶に入れられた大量の残飯を昼休みが終わるころに養豚業者が、トラックに積んで持っていくのを鼻をつまみながら見送っていたそうです。
児童が残した残飯は、廃棄されるのではなく、豚のエサとして再利用されていたんですね。普通に考えたら、エコですよね。
でも、ある時、友人が養豚業者のトラックを見送りながら言った言葉に東野さんは、真実に気付いたそうです。
「俺らが給食を全部食べたら、あの養豚業者は困るやろな」
「そらそうやろ。ブタのエサがなくなるもんなあ」
「あの残飯は学校が売ってるのかな」
「さあ。そうかもしれんな」
「ということは」
友達は腕組みをして続けた。「学校としても残飯が出たほうがええわけや」
僕は沈黙した。友達のいわんとすることがわかった。(216ページ)
そう、東野さんが通っていた小学校では、児童にわざとまずい給食を出して、大量の残飯を養豚業者に安定供給していたと、友人は、疑っていたのです。これには、東野さんも納得したそうです。
東野さんが小学校に通っていた頃は、1960年代なので、今の大阪の小学校の給食がまずいということはないと思います。でも、90年代までは、大阪の小学校で大量に残飯が出ていたようです。
93年に日本は米不足になりました。その時には、埼玉県の某養豚場が、社員食堂の残飯をブタのエサにしていたのですが、米不足で残飯が出ず、仕方なく、パン粉工場からパンの耳をもらって、ブタのエサにしていました。でも、ブタは、パンの耳よりも米を好むので、エサの食いつきが悪かったそうです。
埼玉県のブタがこういう我慢を強いられている一方で、大阪泉州のブタはじつに恵まれた食生活を送っていた。毎日毎日、真っ白な米飯を詰めたドラム缶が何本も届くそうなのだ。その量の多さと連日の米不足報道のギャップには、養豚業者も首を捻っていたということである。(208ページ)
東野さんは、この話を聞いて、そうかもしれないと思ったとか。
もちろん、その頃のブタのエサも学校の残飯を回収して与えられていました。他に周辺の病院や食堂の残飯も養豚業者が引き取っていたようです。
大阪にお住いで、小学生のお子さんがいらっしゃる方は、一度、「給食美味しい?」と訊ねてみてはどうでしょうか?
もしも、お子さんが「まずい」と答えたら・・・。
- 作者:東野 圭吾
- 発売日: 1998/05/20
- メディア: 文庫