ウェブ1丁目図書館

読書で得ること感じること。ここはウェブ1丁目にある小さな図書館です。本の魅力をブログ形式でお伝えしています。

科学は宗教より遅れている

19世紀以降、科学は目覚ましく発展してきました。

テレビ、インターネット、携帯電話でできることは、200年前では神の領域とされていたのではないでしょうか。テレビもインターネットも携帯電話も、テレパシーで遠く離れた人に何かしらの情報を送っているのと同じようなものです。

このようなことができるのは、神さま以外にない、いたとしたらそれは魔女だ。

19世紀より前であれば、そのように考えていたかもしれません。

科学の進歩は人間を神に近づけたと言えそうですが、まだまだ神と比較するほどの力を持っていないでしょう。それどころか、宗教で数千年前にわかっていたことをつい最近になって科学が証明できるようになってきたばかりです。科学は、まだ宗教の足元にも及ばないのです。

宗教ではすでに答えがわかっている

21世紀初頭、世界の多くの国で狂牛病が問題となりました。狂牛病の原因は、廃棄された牛から作った飼料「肉骨粉」を牛に食べさせたことにあります。

作家の五木寛之さんは、著書の「運命の足音」でこのような行為を「自然界ではありえない『共食い』」と表現し、現代の人間中心主義が根底から問われているのではないかと述べています。

五木さんが、ある分子生物学者と話をしている時、その分子生物学者は20世紀の後半になって遺伝子のことがわかり「みんなに命がある」と語ったそうです。

それをきいて、私は「でも、そんなことはもう二千年も前に、仏教が自然界のすべてのものに命がある、といっているではありませんか」と言いました。すると、「いや、直感的にそういうふうに説かれてはいますが、それが科学の力で証明されたということです。やはり科学は偉大ではありませんか」という答えでした。
しかし、そうはいうものの、科学は偉大だというよりも、じつはものすごくおくれたものだ、という気もするのです。
(164ページ)

すでに宗教では、すべての生き物に命があり尊いものだと教えていたのに科学の世界でそれがわかったのは、20世紀も終わりが近づいたころでした。科学は宗教よりも優れていると思っている人が多いでしょうが、実は科学は宗教よりも遅れているのかもしれません。宗教では、なぜそうなるのかはわからなくても答えがあります。その答えに理屈をつけようとしているのが科学なのでしょう。

科学への過信が悲劇を生む

科学の発達は、人間に様々な恩恵をもたらしました。

暑い時にはクーラーを使えば涼めます。また、寒い時は暖房を使って体を温められます。そう、人間は、科学を使って厳しい自然と対等に戦う手段を手に入れたのです。

しかし、厳しい自然に負けない技術を科学の力で手に入れた人間は傲慢になっています。科学さえ進歩すれば、自力で何でも解決できるのだと過信しています。

ところが、科学の発達は多くの悲劇を生んでいます。科学が人間の役に立っているのなら、どうして戦争が起こるたびに犠牲者数が増えていくのでしょうか。18世紀以前の戦争と19世紀以降の戦争では、犠牲者の数があまりにも違いすぎます。中世では、戦争での犠牲者は数百人や数千人でした。しかし、19世紀に入ると戦争での犠牲者は万を超え、第2次大戦では世界中で数千万人の人が犠牲になりました。

本当に科学は人を幸せにしているのでしょうか?

地球上のすべての生き物のなかで、人間だけが「共食い」というとおかしいですが、こんなふうに同族を無制限に殺している。そういう事態をもたらしたのが人間の近代の歴史であり、十九世紀、二十世紀という時代です。
それに対して、私は忸怩たる思いをもたざるをえません。同時に、大きな不安と恐怖を抱かなければいけないような気がしています。
(中略)
人間はおかしい。なぜ、文明が進むにつれて戦争が増えていくのか。なぜ、文明が進むにつれて、戦争で命をうばわれる人の数が多くなっていくのか。
こんな馬鹿なことはないではないか。この文明は根底から間違っているのではないか。私は、やはり間違っていると思います。
(170~171ページ)

科学でわかっていることは、ほんのわずかです。それにもかかわらず科学を過信し、科学万能主義に陥っているのが現代の先進国の人々です。科学という名の一神教を信じているのですね。

原理主義よりも寛容な社会

世界中で起こっている紛争は、一神教一神教の戦いのように感じます。

科学という名の一つの神を信じるか、各宗教が決めた一つの神を信じるか。

神は自分が信じている宗教でしか認められないとする原理主義が、争いの原因になっていないでしょうか。

五木さんは、生物の免疫には他者を拒絶する働きと他者を受け入れる寛容的な働きがあることを述べ、「原理主義的な宗教のなかから、『NO』という部分ではなく『YES』という部分を広げていく」ことの重要性を説いています。

「選択的な一神教」である真宗でさえも、「諸神諸仏諸菩薩を軽んずべからず」といっている。親鸞蓮如もそういっています。
これは、自分たちが一神教的に阿弥陀如来をただひと筋に信じることはかまわない。でも、他の人にそれを強制したり、それを信じない人を異端として攻撃してはいけない、ということをきちんといっているのだと思います。
「諸神諸仏諸菩薩を軽んずべからず」という言葉は、たくさんの神や仏や菩薩がこの世に存在していることを否定しない。むしろ肯定している意見だといえるのです。私は、そこに非常に大きな可能性があるような気がしています。
(176ページ)

世の中にはわからないことはたくさんありますし、目に見えないけど実在している物もたくさんあります。

目に見えないものは、まだ科学では解明できていないだけかもしれません。それなのに現代の科学が万能だと信じて他を否定することは、科学という名の一神教だけが正しく他はまちがっていると言っているのと同じです。

世界中で紛争が起こるのは、自分が信じる一神教だけを信じ、非自己を拒絶することばかりを考えているからなのかもしれません。免疫寛容を無視していると、誰もが原理主義に陥って争いを起こす危険があるのです。

運命の足音 (幻冬舎文庫)

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