ウェブ1丁目図書館

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新選組隊士の日記で見る敗者の明治維新

歴史の節目には必ずと言っていいほど争いが起こります。そして、勝者と敗者が生まれます。

歴史は勝者の側からの記録をもとに語られることが多いので、後世の人々は、どしても勝者が正義で敗者が悪と考えがちです。しかし、そもそも歴史において善悪を決めることに意味はないのかもしれません。現代社会では選挙によって為政者が選ばれますが、当選した候補者が正義で落選した候補者が悪とはなりません。選挙では、有権者が最も社会を良くしてくれそうな候補者に投票しているだけです。

2人の新選組隊士の日記

明治維新では、新政府に味方した人々が正義で幕府に味方した人々が悪と決めつけられました。特に幕府に積極的に協力した人々ほど悪人とされる傾向にありました。

新政府によって悪人と決めつけられた人々の代表は新選組です。新選組は幕末の京都の治安維持にあたった警察組織だったのですが、政権が幕府から明治政府に移ると凶暴な殺人鬼集団と決めつけられました。明治政府の人々は、新選組にひどい目にあわされましたから、そのように評価するのは無理のないことです。

しかし、時が流れれば敗者の側にも、やがて光が当てられます。そして、新選組の活動がどのようなものだったのかを正当に評価する人たちも現れます。

新選組隊士の生き残りの永倉新八新選組時代の活動を「浪士文久報国記事」という日記に記録していました。また、同じ新選組隊士島田魁も明治になって間もない頃に新選組の活動をまとめた「島田魁日記」を書いています。どちらも木村幸比古さんの「新選組日記」に収録されているもので、幕末の新選組の活動を正当に評価する史料と言えます。

新選組の名称誕生

新選組は、多くの勤王の志士たちを斬殺しました。

勤王は天皇のために尽力することを意味します。したがって、勤王の志士と名乗る者たちを斬ることは天皇に刃向うことになり、それはすなわち逆賊を意味する行為と言えます。

しかし、新選組の名称が生まれた経緯を知れば新選組こそが勤王の志士であり、長州藩士や土佐の脱藩浪士たちは勤王の志士ではなかったことがわかります。島田魁日記では、新選組の名称は武家伝奏から賜ったことが記されています。

同八月十八日長州人引揚ノ節、当組南門前を守ル、其節転奏ヨリ新選組ノ隊名ヲ下サル、
(190ページ)

武家伝奏は、天皇上皇への取り次ぎをする公卿たちのことです。

1863年に起こった八月十八日の政変で、新選組会津藩から出動命令を受け、御所の堺町御門の警備にあたりました。この働きが孝明天皇の耳に入り、武家伝奏を通して新選組の隊名を賜ることになったのです。これは、孝明天皇新選組を勤王のために働く組織だと認めたということです。そして、この時に京都から追放された長州藩こそが朝敵だったのです。

池田屋事件沖田総司は早めに離脱した?

京都から追放された長州藩は、京都政界に返り咲こうと様々な画策をします。そして、1864年に複数の藩士を京都に送り込み、池田屋で何度も密会を重ねて政権奪取の計画を立てます。

その計画は、風の強い日に京都の町に火を放ち、天皇を拉致して長州に連れ去ろうというものでした。しかし、長州藩のこの計画は、枡屋喜右衛門と名乗っていた古高俊太郎が新選組に捕縛されたことで、新選組局長の近藤勇の知るところとなりました。そして、長州藩の計画を未然に防ぐために新選組隊士たちは池田屋に急行しました。

池田屋に到着した近藤勇は、玄関で御用改めだと宿の主人の惣兵衛に言います。すると、惣兵衛が驚いて2階に上がったので、新選組隊士たちも後を追うと、20人ほどの志士たちが抜刀していました。近藤勇が大声で御用改めだと一喝すると志士たちは怯みましたが、その中の勇敢な1人が斬りかかってきました。このやり取りを現場にいた永倉新八が浪士文久報国記事に記しています。

壱人切テカケル者是アリ、沖田総司是ヲ切ル、夫より下ヘト逃ル者有之、近藤勇下エト差揮スル、下ニハ八軒ノ灯リ有之、夫故ニ大キニ助リ、沖田総司病気ニテ会所江引取
(72ページ)

時代劇では、池田屋に入った近藤勇が2階の部屋から出てきた1人の志士を階段を駆け上がり様に斬り捨て、志士が階段を転げ落ちる場面が描かれています。しかし、永倉新八の日記では、最初に志士を斬ったのは沖田総司となっています。

沖田総司は剣の達人で、こちらも時代劇では吐血しながらも大活躍したように描かれます。しかし、永倉新八の日記では沖田総司の活躍は最初の1人を斬ったことしか記録されておらず、病気で屯所に戻ったとなっています。

池田屋事件については、島田魁日記にも記載があります。長州系浪士の数は30人程度だったのですが、島田魁日記では80人から90人と記録されており、新選組の活躍を誇大に表現していることが伺われます。木村さんによれば「隊内でも流言飛語で武勇伝となりつつあったのだろう」とのこと。

函館戦争での土方歳三

1868年1月の鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争は、翌年5月の函館戦争まで続きます。

新選組は、鳥羽伏見の戦い後に江戸へと引き上げ、その後、甲府城を攻めましたが敗北。永倉新八は直後に新選組を離脱します。新選組はこの段階で事実上瓦解し、間もなく、近藤勇も新政府に捕えられて斬首されました。

残った隊士の一部は、副長の土方歳三と共に会津で新政府軍と戦い、さらに北上して函館五稜郭に向かいます。

この間、島田魁土方歳三旧幕府軍に参加して戦い続けました。函館戦争で土方歳三は戦死しましたが、島田魁は生き残ります。もしも、島田魁が戦死していれば、土方歳三は鬼の副長と呼ばれ続け、新選組は人殺しを目的に結成された組織だと今も信じられていたでしょう。

熾烈を極めた函館戦争では、土方歳三が率いる部隊が1日に50回も出撃し、新政府軍を追い帰す活躍を見せていました。土方歳三は、恐怖政治で組織をまとめていた印象が強いのですが、函館戦争では、そのような姿は見られません。むしろ、兵士たちを労わる土方歳三は、多くの信頼を集めていたようです。

戦場で、土方歳三が樽酒を振る舞った時、兵士たちはうれしそうに笑いながら励まし合ったことが島田魁日記に記されています。

総督自カラ樽酒ヲ携諸壁シテ兵ニ贈リ謂、汝等ハ歩卒ニシテ能防リ、官軍ハ士ニシテ且衆、吾常ニ賞嘆ス、(中略)吾重賞ヲ与フ、然レドモ酔ニ乗シテ軍律侵スヲ患、只一椀ヲ与フ而巳、皆喜笑シテ自カラ勉ム
(299ページ)

新政府軍が函館戦争で勝利したことで日本の夜が明けました。

しかし、1894年から50年間、日本は、日清戦争日露戦争、第1次世界大戦、日中戦争、太平洋戦争を経験します、そして、広島と長崎への2発の原爆投下で大日本帝国は崩壊しました。260年間の泰平を維持してきた江戸幕府を倒した明治政府が、何度も戦争をして、これまでにないほど多くの犠牲者を出したのですから、明治という国家に疑問を持つ人もいることでしょう。


孝明天皇の信頼を得た新選組と勤王を利用した長州藩

一体どちらが本当の勤王の志士だったのでしょうか?

新選組日記 (PHP新書)

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