ウェブ1丁目図書館

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和と礼

日本の国民性には、どこか曖昧さがあります。言葉を発しなくても、表情で何を言わんとしているのか察するという辺りにも、どことなく曖昧さを感じます。

中江兆民は、日本には純粋な哲学が存在しないと嘆きました。日本人特有の曖昧さを哲学として捉えるのは困難だったのでしょう。しかし、この日本人特有の曖昧さが、時に揉め事を引き起こすことはあるでしょうが、とりあえず社会がうまく回る仕組みを作り出しているのではないかと思います。

揉め事を嫌う国民性

日本人が多くの場面で曖昧さを残しているのは、揉め事を嫌う性格が強いからなのかもしれません。

哲学者であり作家でもある梅原猛さんは、「日本とは何か」を考えるために「海人と天皇」を著しました。純粋な哲学が存在しない我が国を研究するに際しては哲学と思想だけでなく、広く宗教、文学、政治、歴史まで考察していかなければならないと梅原さんは考えています。

日本人の揉め事を嫌う性格は、少なくとも聖徳太子の時代まで遡るのではないかと思います。聖徳太子憲法十七条を作り、その第一条に「和なるを以て貴しとし」という文言を入れています。和を乱さない、それは揉め事を起こさず仲良くしましょうということ。憲法の最初に和を持ってきた聖徳太子は、日本では和が最も大切だと考えたのでしょう。

憲法十七条とともに聖徳太子が作った制度に冠位十二階があります。「徳、仁、礼、信、義、智」のそれぞれに大と小を設け12の位を定めたものが冠位十二階ですが、これは儒教の「仁、義、礼、智、信」を輸入したものだとされています。しかし、聖徳太子は、儒教の順番そのままを受けいれていませんし、仁の上に徳を定めています。

聖徳太子は、日本にとって重要な順番に並べ替えたと考えられています。そして、梅原さんは、聖徳太子が「徳、仁、礼、信、義、智」の順番にしたのは、憲法十七条に秘密があると考えています。儒教では仁の徳が重視されていますが、聖徳太子は仁に代えて和を最高の徳と考え憲法十七条の第一条に記したのだと言うのです。

私は、聖徳太子までの長い日本の歴史を大きな動乱の時代と考えている。(中略)弥生時代から古墳時代にかけて、日本はそういう動乱の時代であった。しかしこの日本という小さな国土で相争っていても、よい結果は望めない。そこで「和」が必要と多くの人は考えた。日本すなわち「ヤマト」に「大和」という漢字をあてたのはいったい、いつの頃からであろうか。それはやはり続く動乱に疲れ、「和」を切実に求める民衆の要望から出てきた言葉であろう。こういう状況を受けて、太子は「和をもって貴し」といったのではないか。「和をもって貴し」という言葉の背景には、長きにわたる日本の「不和」の時代があったことを忘れてはならない。
(85~86ページ)

人々が相争う時代を経験してきたからこそ、聖徳太子はこの国に和が絶対必要だと考え、憲法十七条の第一条に「和」を持ってきたのでしょう。

仁と和の違い

では、儒教が重視する「仁」と聖徳太子が重視する「和」とにどのような違いがあるのでしょうか。

どちらも人間の道徳や倫理を説いた言葉である点で共通していますが、梅原さんは「仁」を主観的、「和」を客観的と考えている点で異なっています。

仁徳のある人という言葉はありますが、和のある人という言葉は聞いたことがありません。もしかすると、和のある人という言葉があるのかもしれませんが、あまり使う人はいないのではないでしょうか。

仁徳のある人という言葉から考えると、仁とはその人が持っている道徳と言えるでしょう。つまり、仁とは個人が具える道徳的資質を表した言葉なのです。対して和は、個人の道徳的資質ではなく、ある集団の構成員同士の関係性を和やかにするために必要なものだと言えます。

「仁」が主観的な原理であるのにたいして、「和」は客観的原理である。それは人と人との関係の道徳である。聖徳太子は人間の主観的な内面的倫理より、人と人との関係の倫理が必要だと考えたのである。この関係の倫理が日本では何よりも重要なのだと考えて、それを「憲法十七条」の中心においたのである。私はそれは太子の日本の歴史と現状に照らしての状況判断であったと思う。
(86ページ)

礼の重要性

儒教では仁に次いで義が重視されていますが、冠位十二階では仁の次を礼としています。ここにも、聖徳太子が人間関係を重視していたことがうかがえます。

礼は人間関係の根本原則です。だから、聖徳太子は支配層だけでなく被支配層にまで礼の思想を広めなければならないと考えました。儒教思想では、礼を被支配層まで及ぼすことは不可能だとしています。だから、礼は支配層の倫理であり、被支配層は刑によって取り締まれば良いのだと。

中国は巨大な国である。古くから文明の開けていた国である。そしてこの巨大な国には多くの異民族がいた。この多くの異民族を含む民衆の一人一人に道徳をおよぼすことは不可能だというのであろう。日本は小さな国である。文明の発展ははなはだ遅れていた。その小さな国ゆえに、文明の発展が遅れていたゆえに、まだ一人一人の民衆に道徳を及ぼすことが可能というのであろうか。そのようないささか甘い理想主義が、日本においては可能であると太子は考えたのであろうか。
(92ページ)

人と人との話し合いで問題解決をするのが「和」の思想であり、人間関係を潤滑にするのが礼と考えられないでしょうか。話し合いで問題解決できるとしても、そもそも人々が礼を失していれば、会議の席に着こうとする人は現れないでしょう。すなわち、和がどんなに大切だと言っても、礼が疎かであれば話し合いすら行われず問題を解決できないのです。

梅原さんによると、儒教の礼が日本に移入されなかったのは、すでに日本に礼があったからだとのこと。しかも、日本社会は、はなはだ礼を重んずる社会だったのだと述べています。儒教の礼よりも、昔から日本に根付いていた礼の方が当時の人々に受け入れられやすかったのではないでしょうか。


現在でも、柔道や剣道などの武道では、試合の始めと終わりに礼をします。今まで激しく戦いあっていたのに試合が終わると何もなかったかのように試合会場を去れるのは、この礼に理由があるのかもしれません。

和を重んじる日本社会では、必ず礼が必要になります。礼を軽視していては、日本社会では揉め事を解決できません。そして、和も礼も日本社会特有の道徳であり、国外での問題解決には通用しないことがあることも知っておかないとならないでしょう。

海人と天皇 上 (朝日文庫)

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  • 作者:梅原 猛
  • 発売日: 2011/08/05
  • メディア: 文庫