読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ウェブ1丁目図書館

読書で得ること感じること。ここはウェブ1丁目にある小さな図書館です。本の魅力をブログ形式でお伝えしています。

始めるのに遅すぎるということはないし研究開発に資金や設備が必要ということもない

日本人でチキンラーメンを食べたことがないという人は、あまりいないのではないでしょうか?

チキンラーメンを製造販売しているのは日清食品です。そして、開発したのは安藤百福(あんどうももふく)さんです。安藤さんが、チキンラーメンを開発した時の年齢は48歳でした。それも、無一文の状態から研究開発を始めたそうです。

安藤さんは、著書の「魔法のラーメン発明物語」の中で、「人生に遅すぎるということはない」と語っています。

牢屋の中で感じた食の崇高さ

安藤さんは、戦前から事業をされていましたが、あることが原因で、憲兵につかまり牢屋に入れられてしまいました。

そこで出される食事は、粗末なもので、汚い食器に臭い食べ物が盛られており、とても人間が食べれるようなものではありませんでした。だから、安藤さんは、数日間、絶食をしたそうです。

安藤さんが食事を食べないので、同房にいた人たちが、安藤さんの食事を奪い合います。その光景は、傍から見ると、浅ましいものなのでしょうが、極限状態になれば人間も動物なので、そうなるのだと、安藤さんは思ったそうです。すると、今まで食べることができなかった臭い食事が食べられるようになり、汚い水も平気で飲めるようになったとのこと。

極限になれば人間の本質が見えてくるという。この時、私の心は、何か透明な感じで食というものに突き当たった。人間にとって、食こそが最も崇高なものなのだと感じられた。即席めんの開発の源をだどっていけば、ここまでさかのぼるのかもしれない。(11ページ)

戦後の餓死者を見て食へ転向

終戦から1年が経っても、町には餓死者の姿が見られたことから、安藤さんは、やはり食が大事なんだと思い、泉大津で製塩業を始めました。

製塩の経験はなかったものの、塩をつくることはでき、それを泉大津市民に無料で配り、余った塩は一部市販することにしました。また、漁船も2艘購入して、若者たちとイワシを獲り、干物にして近所に配ったそうです。


さらに若者たちの学問のために奨学金を支給していたのですが、これに脱税の容疑がかけられ、巣鴨プリズン(東京拘置所)に入れられ、所有していた不動産も没収されてしまいました。

この脱税容疑については、訴訟に発展しましたが、最終的に安藤さんが訴えを取り下げることで決着しています。


その後も、安藤さんに災難が降りかかってきます。

名義を貸していた信用組合が破たんしたのです。名義を貸していただけとは言え、安藤さんは理事長だったので、全く責任をとらないというわけにはいきません。結局、安藤さんは無一文となってしまいました。

この時の経験から、安藤さんは日清食品の創業以来、無借金経営を貫いてきたそうです。

無一文からチキンラーメンの研究開発を始める

無一文になった安藤さんは、1957年から即席めんの研究開発をはじめました。

しかし、安藤さんは、めんに関しては全くの素人だったので、どのように造ればいいのかわかりません。作っては捨て、捨てては作る、その作業の繰り返し。そして、わかったのは、食品とはバランスだということ。たった一つしかない絶妙なバランスを発見するまで、愚直に追求し続けるしかないことを知ったのです。


安藤さんは、チキンラーメンを発明した瞬間の気持ちを質問されることがあっても、決定的な場面は思い浮かばなかったそうです。

失敗を繰り返しながら、しかし、少しずつ前進していることはわかっていた。その先のわずかな光を頼りに、進み続けるしかなかったのである。(62ページ)

そういった愚直な作業を繰り返しながら、めんを油で揚げると乾燥して長期保存が可能になることや宗教によって牛や豚を食べない人がいてもチキンを食べない国は世界中にないことなどがわかってきました。

そして、1958年にチキンラーメンの試作品が完成します。

爆発的ヒットと模倣品との戦い

完成したチキンラーメンを百貨店で試食販売すると、お客さんの反応は上々。

お湯を注いで2分でできるチキンラーメンは、いつしか魔法のラーメンと呼ばれるようになり、安藤さんは、この商品は売れるという確かな手ごたえを感じました。

しかし、百貨店では評判だったチキンラーメンでしたが、問屋に持っていくと、反応は良くありません。というのも、見た目は今までの乾めんと同じなのに、値段が、乾めん25円に対してチキンラーメンが35円と割高だったからです。加えて、安藤さんが、従来の商品とは違うのでチキンラーメンの販売については、現金決済を要求したことも、問屋での受けが良くない理由でした。


どの問屋も反応はイマイチでしたが、消費者にはその後も好評でした。

そんなある日、安藤さんのもとに1本の電話が入ります。ある問屋からの「安藤さん、売れるがな。チキンラーメン、百ケースでも二百ケースでも持ってきて」という内容でした。

消費者の声が小売店に届き、それが問屋にまで波及したことで、チキンラーメンは爆発的にヒットしたのです。


でも、ヒット商品について回るのが模倣品です。チキンラーメンも、ヒットの後に偽物が出回り、製法が粗悪であったことから食中毒を起こすまがい物も登場しました。

安藤さんは、こういった偽物を排除するために裁判を起こして解決しました。また、品質問題に対しては、日清食品の全食品に製造年月日を表示するようにして、食の安全の確保に努めます。

この安藤さんの取り組みが功を奏し、後に厚生省が食品衛生法で製造年月日の表示を制度化し、他の食品にも適用されるようになりました。現在の日本の食品の安全性が高いのは、安藤さんが、チキンラーメンの模倣品と戦ってきたことが、その始まりなのでしょうね。

戦後の食糧難の教訓を生かした阪神淡路大震災

1995年1月17日に阪神淡路大震災が起こった時、日清食品は、急きょ社員7人で救援隊を組織し、給湯器付きのキッチンカーとライトバンの3台に即席めん約1万5千食を積んで神戸市東灘区の避難所に向かいました。

安藤さんは、震災後に飢餓的状況がやってくると思ったので、すぐに行動に移したのです。そして、日清スポーツ振興財団を通して、保護者を失った高校生を対象に奨学金も給付しました。

この時の安藤さんの判断は、終戦後の食糧難が教訓となっていたのでしょうね。当時も食に力を入れ、奨学金も支給していましたから。

ベンチャー奨励

安藤さんは、生前にベンチャーを育成して新たな雇用機会を創出する必要があると語っていました。

資源を持たない日本は、知恵を結集して新しい産業を興し、世界に貢献していくのが理想と考えるからです。

安藤さん自身も小さなベンチャーからスタートし、チキンラーメンを開発しています。やがて、それは、43年間に渡る関係者の努力の結果、世界で1年間に463億食も生産される巨大な産業に成長。関連産業を含めると、経済的波及効果は年間4兆2千億円に上り、雇用人口は100万人を超えているそうです。

私が強調したいのは、資金や設備がなくても研究開発はできる、ということである。どんなに時代が変わろうと、IT全盛の時代になっても、開発者にとって一番大切なのは創造力である。それをやり遂げる執念である。(131ページ)

先ほども述べましたが、安藤さんがチキンラーメンを発明したのは48歳です。

これくらいの年齢になると、そろそろ老後のことを考えてしまいますが、まだまだ、何かを始めるのに遅いということはありません。また、資金や設備がなくても、創造力を総動員して、執念でやり続ければ、できないこともありません。


安藤さんの境遇と比較すると、現代人は、相当恵まれた環境にあるので、いつからでも、どんな状況からでも、何かにチャレンジすることは可能なのではないでしょうか?