ドトールコーヒーの創業者の鳥羽博道さんが、初めてコーヒーを飲んだのは、コックの見習いをしていたレストランでした。
そのコーヒーは、缶入りのコーヒーで、缶詰独特の酸化した匂いと麦わらのような匂いがするもので、不味いとは思わなかったけど、格別、美味しいとも思わなかったそうです。
鳥羽さんの著書「ドトールコーヒー『勝つか死ぬか』の創業記」によると、初めてコーヒーを飲んだ時の感想は、「これがコーヒーか」という感覚だったとのこと。
その後、別のレストランで働くことになった鳥羽さんは、そこで二度目のコーヒーを口にすることになります。その時のコーヒーは、とても香りが良く、美味しかったそうです。以来、1杯の美味しいコーヒーが、仕事に対する取り組み方を大きく変え、それまで、コーヒーを漠然といれていたのですが、どうすればもっと美味しいコーヒーをいれることができるかと、研究するようになっていきました。
もしも、鳥羽さんが、2軒目のレストランでコーヒーを飲まなければ、ドトールコーヒーはなかったかもしれません。
上手なセールストークよりも人が喜ぶことを進んでやることが大事
鳥羽さんは、18歳の時にコーヒー豆の焙煎・卸売の会社に入社しました。
そこで、社長からコーヒー豆の営業をやるように言われた鳥羽さんは動揺します。赤面対人恐怖症だったからです。
毎日の営業は鳥羽さんにとってつらいものでした。逃げたくなることもあり、会社を辞めようと何度も思ったそうです。でも、会社を辞めることは、「人生の敗北者」になってしまうと思った鳥羽さんは、そんなことには絶対になりたくないと思い、赤面対人恐怖症と正面から向き合うことにします。
そして、セールストークが苦手なら、無理して売り込む必要はないと思い、別の方法を考えます。
「セールストークが不得手であるのなら、無理してコーヒーを売り込むことはない。それよりもまず、その店のために役立つことをしよう」。そう考えることにしたのである。汚れた皿を片づけたり、残飯を捨てたり、出前の多い店ではその手伝いをしたり。さらには、デパートに行って厨房機器や台所製品をチェックして、お店のカウンター内の仕事がしやすいように役立つものを買ってくるようなことをやり、お客様の喜ばれることなら何でもやった。(59ページ)
そうやって、人が喜ぶことを進んでやった結果、ある大手レストランが新たに支店を出店することになった時、先方の営業部長が、「うちのコーヒーは鳥羽君のところだ」といってくれました。
この経験から鳥羽さんは、若い時は戦略など考えずに常にお客さんのために何ができるかを考え、一生懸命やることが相手の心を動かすんだということを知ったそうです。
先のことを考えても不安になるだけ
1962年。
鳥羽さんは、コーヒー豆の焙煎・卸会社のドトールコーヒーを設立しました。
しかし、設立間もない卸会社ということもあって、信用も実績もなく、既存の卸会社がひしめきあう市場に入り込む余地がありませんでした。営業に行っても、門前払いは当たり前。しつこく食い下がれば「仕事のじゃまだ」と怒鳴られることもありました。ようやく販売できたとしても、今度は代金をなかなか払ってもらえなかったりと、商売が軌道に乗ってきません。
そういった毎日を繰り返すうちに鳥羽さんの頭に「倒産」の2文字がよぎるようになります。
そんな恐怖心を毎晩感じながら、神宮外苑の暗闇の中を歩いている時、あることに気づきました。
(潰れる、潰れると思うから心が委縮して何もできないのだ。明日潰れてもいい、今日一日、体の続くかぎり全力で働こう)
そう思ったことで不思議と気が楽になったのである。人間、朝から晩までどことん悩んだ末は案外開き直れるものだ。私は気持ちを新たにして、それからは文字どおり、今日一日、今日一日と、体力の続くがぎり、ただひたすらに商売に打ち込んでいった。(69ページ)
気持ちを切り替えたことで、不思議とコーヒー豆が少しずつ売れ始めました。コツコツと毎日一生懸命に働いているうちにお客さんから知り合いの喫茶店を紹介してもらえるようになり、ゆっくりではありましたが、業績が良くなり、会社設立から2年が過ぎたあたりから収支が合うようになりました。
9年間時期を待って開業したドトールコーヒーショップ
鳥羽さんは、1971年にヨーロッパのコーヒー文化を見に行くツアーに参加します。
当時の日本では、コーヒーは嗜好品でしたが、ヨーロッパでは日本茶のようにコーヒーが一般的に広く親しまれていました。
また、あるコーヒーショップでは、カウンターのところで立ってコーヒーを飲むお客さんの姿があり、鳥羽さんは、それに興味を持ちます。その店では、テラス席に座ってコーヒーを飲むと高い値段を払うことになりますが、立ち飲みだと、値段が安くなるという仕組みでした。
これを見た鳥羽さんはカルチャーショックを受けたそうです。
帰国した鳥羽さんは、健康的で明るく老若男女に親しまれるコーヒーショップ「カフェ コロラド」を開店します。当時の日本の喫茶店は、店内が薄暗く、不健康で退廃的なイメージがありました。その悪いイメージを払拭し、入りやすいお店にしたのがコロラドだったのです。
ヨーロッパへの視察から9年経った1980年に鳥羽さんはドトールコーヒーショップ1号店を開店します。
この頃になると、朝一杯のコーヒーを飲まないとその日の仕事が始まらないというビジネスマンも増えていたので、そういった人たちに低価格で提供できるコーヒーショップを作ろうと思ったのです。
当時は、第二次オイルショックで景気が低迷していた時だったので、ビジネスマンの可処分所得も減少していました。なので、たった1杯のコーヒーとは言え、彼らの経済的負担は大きなものとなることから、ヨーロッパで見た低価格の立ち飲みコーヒー店を開店するタイミングは今しかないと、鳥羽さんは思ったそうです。
そして、フランチャイズのオーナーを必死に説得して、1杯150円の立ち飲みコーヒーが実現しました。
商機を待つことも大事
ところで、鳥羽さんは、なぜヨーロッパ視察から帰国してすぐにドトールコーヒーショップを開店しなかったのでしょうか?
これに対して、鳥羽さんは、当時、すぐにドトールコーヒーショップを開店しても成功しなかっただろうし、他人に先んじられる心配もなかったから時期を待ったと語っています。
1970年代は、まだまだコーヒーは高級品であり嗜好品という位置づけだったこと、立ってものを食べたり飲んだりすることは行儀の悪いことといった風潮がありました。だから、帰国後すぐに1杯150円の立ち飲みコーヒー店を開店しても、うまくいかなかったと想像できます。
でも、1980年になると、時代も変わり、コーヒーは気楽に飲めるもの、立ってものを食べたり飲んだりすることに抵抗がなくなってきていたことから、低価格の立ち飲みコーヒーが消費者に受け入れられる社会的基盤が出来上がっていました。
商機というものは-たとえどんなに自分が正しいと思っていることでも-「時」、すなわち時代の大きな流れ(時代的背景、社会の成熟度)と、「機」、すなわちそのことを起こそうとする機会が合致して初めて、味方になってくれるものだ。(93~94ページ)
最近では、すぐに行動することがビジネスチャンスをつかむためには大切だと言われています。確かにその通りだと思います。でも、どんなに優れたビジネスモデルであっても、それを受け入れる社会的基盤が整っていない状況では、軌道に乗る前に潰れてしまう危険があるでしょう。
社会が受け入れてくれる基盤が整うまで、すなわち商機が到来するまで時間を待つということも、時には大切なことなのだということをドトールコーヒーの成功が教えてくれてますね。
ドトールコーヒー「勝つか死ぬか」の創業記 (日経ビジネス人文庫)
- 作者:鳥羽 博道
- 発売日: 2008/09/01
- メディア: 文庫
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