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ウェブ1丁目図書館

読書で得ること感じること。ここはウェブ1丁目にある小さな図書館です。本の魅力をブログ形式でお伝えしています。

戦争は感性と知識のバランスが崩れた時に起こる

毎年8月になると、広島、長崎に原爆が投下されたこと、15日に終戦(敗戦)を迎えたことを再確認します。

なぜ、再確認するのか?

それは、テレビなどのメディアで、戦争に関する番組が増えてくるからですね。もしも、そういった番組や原爆投下から今年で何年とか、終戦から何年が経ったとかいう報道がなければ、戦争の記憶が風化するでしょう。なので、毎年8月になると、こういった番組や報道が行われることは良いことだと思います。

でも、近代以降に起こった戦争の原因は様々ありますが、その背景にはメディアの存在もあったんですよね。

知ることで固定観念が生まれる

作家の五木寛之さんの著書「生きるヒント」を読んでいると、柳宗悦(やなぎむねよし)さんの「見テ 知リソ 知リテ ナ見ソ」という言葉が出てきました。

この言葉を五木さんは以下のように解釈しています。

見てから知るべきである、知ったのちに見ようとしないほうがいい、という意味でしょうが、実はもっと深い意味があるような気がする。つまり、われわれは<知る>ということをとても大事なこととして考えています。しかし、ものごとを判断したり、それを味わったりするときには、その予備知識や固定観念がかえって邪魔になることがある。だから、まず見ること、それに触れること、体験すること、そしてそこから得る直感を大事にすること、それが大切なのだ、と言っているのではないでしょうか。(138ページ)

知ることは大切なことでしょう。そして、知る歓びもあります。

しかし、物事を深く味わうためには、事前に情報収集するよりも、まず体験してみることの方が大切な場合もあるでしょう。何の予備知識もないからこそ、体験した時に大きな衝撃を受けるもの。

でも、何の予備知識も固定観念もない状態で、何かを体験することは非常に難しいことのように思います。

現代のように情報が氾濫している社会では、知りたくないことだって自然と耳に入ってきますし、映像として目に飛び込んでくることもしばしばあります。こういった他人から与えられた情報によって、固定観念が生まれ、それがある人やある国のことを好きになったり嫌いになったりする面もあるでしょう。

情報を遮断して磨かれた感性はすばらしいのか?

では、他人から与えられる情報を遮断して、自分が見たり経験したりすることで磨かれた感性が優れたものと言えるのでしょうか?

確かに自分が実際に経験することで、他人から聞いた情報と違っているということに気づくことがあるでしょう。だから、真実を知りたければ、人から聞いた情報だけで判断せずに自分の眼で見、自分の体で経験することが大切だと言えます。

しかし、自分が経験したことが必ずしも真実ではない場合もあるでしょう。いえ、真実なのですが、何かを経験することで、自分の心の中に何かの感情が生まれてくるものです。この感情は、事実かどうかといったものではなく、良いのか悪いのかという善悪の判断となるものではないでしょうか。

例えば、フルマラソンを完走し、ゴールの直後にへとへとになって倒れ、翌日には全身を筋肉痛が襲ったとしましょう。この時、フルマラソンを完走した後は疲れたし、翌日に筋肉痛になったというのが事実です。でも、人は、同じ事実でも違う捉え方をするものです。それに対して苦痛を伴うから悪いことだと感じる人もいれば、体を鍛えることができたので良かったと感じる人もいるでしょう。

同じ事実であっても、良いことだと感じたり悪いことだと感じたりするのは、人それぞれであり、これこそが個人の感性なのかもしれません。

フルマラソンは疲れるから悪いことだ、フルマラソンは体を鍛えられるので良いことだ、どちらも感性の問題であり、優劣を決めることはできないでしょう。

情報が感性を操作する

五木さんは、感性と知識のバランスについて以下のように述べています。

自分の感性を信じつつ、なお一般的な知識や、他の人びとの声に耳をかたむける余裕、このきわどいバランスの上に私たちの感受性というものは成り立たねばなりません。(141ページ)

感性と知識はどちらかに傾いてしまうと、危険だということでしょうね。


同書では、アメリカが湾岸戦争の開始に踏み切った時のある少女の言葉が紹介されています。

クウェートに侵入したイラク兵たちが、保育器にはいっていた未熟児を投げ出して殺すのをこの目で見ました。たくさんの赤ん坊たちがそんな目にあったのです(144ページ)

この話を聞いたら、多くの人が、「イラク兵はけしからん。だから懲らしめないといけない」と思うのではないでしょうか?

少女の証言が決定打となってアメリカが湾岸戦争に踏みきったということではないのでしょうが、議会では、わずか5票の差で賛成が反対を上回り、また、賛成に回った議員の6人が、イラク兵が保育器の赤ん坊を投げ出すような非人道的なことをしていると述べていたそうです。


しかし、後になって、証言をした少女はクウェートの駐アメリカ大使の娘であったことが暴露されます。

その広告代理店はクウェート側のスポンサーから、アメリカの世論をクウェートに同情的に、イラクに敵対的にリードすることを依頼され、そしてホワイトハウスと直接連絡をとったうえでその少女を起用し、世界に大きな影響を与える証言をテレビで放映したのでした。(145ページ)

これは、まさに情報が感性を操作した事例と言えるでしょう。

保育器に入っている赤ん坊を外に投げ出したら死んでしまうに違いない。だから、そのようなことをするイラク兵は悪い奴だと、その情報は多くのアメリカ人の感性に訴えかけたはずです。そして、湾岸戦争は正義のための戦争だったので、悪いことではなかったと思わせたのではないでしょうか。

私たちは疑いぶかくなければならない。そして情報というものに対して一方的な受け身の姿勢でいてはならない。何か変だな、と心の片隅でふっと感じたときには、その感覚を信じて、大きく自分の目をみひらき、世間で言われている一般的な知識というものに疑いの目をむけなければならない。(149ページ)

一方的に与えられた情報が、自分の知識の大部分になってしまうことほど危ういことはありません。一方的に流された情報は、無意識のうちに自分の感性を操作し始めます。


では、そうならないためにはどうするべきなのでしょうか?

僕は、一方的に与えられた情報と同じ程度に自ら情報を収集することが大切ではないかと考えます。与えられた情報と自ら手に入れた情報が同程度であれば、メディアの情報によって感性が操作されにくくなるはずです。

そして、感性と知識のバランスをとりながら生活することで、平和を維持できるのではないでしょうか。

新版生きるヒント1

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