「幸せの青い鳥」の話をご存知でしょうか?
チルチルとミチルが幸福の象徴とされる青い鳥を探しに旅に出ますが、結局見つからずに帰宅すると、自分たちのベッドの横の鳥かごの中にいたというお話で、幸せは遠くではなく案外身近にあるものだと気付かせてくれる童話です。
「幸せの青い鳥」の話を知っている人は、上のようにその内容を語るでしょう。でも、作者のメーテルリンクは、実はそのような物語にはしていなかったようです。
なぜすぐにご馳走を食べないのか?
私が、「幸せの青い鳥」の本当の内容を知ったのは、五木寛之さんの「生きるヒント2」を読んでいるときでした。
五木さんも、幸せは身近にあるものだと気づかせる物語だと勘違いしていたそうですが、メーテルリンクの原作を読んで、そうではないことを知ったそうです。
チルチルとミチルは、貧乏な木こりの子供として生まれます。兄弟は7人いたのですが、ふたりを残して全員亡くなっています。物語は、チルチルとミチルが向かいのお金持ちの家のクリスマスの用意を窓辺にもたれて見ているところから始まります。そして、始まりからいきなり衝撃的な言葉が出てきます。
はなやかなクリスマス・ツリーがきらきら輝いて、おいしそうな料理やケーキがテーブルにのっていて、着飾った人たちがつぎつぎにその家を訪れてくる。そこでミチルという妹がチルチルという兄貴にきく言葉が、ぼくには非常にぐさっと胸にきたのですが、それはこういう言葉なんです。
<とうしてあの人たちはすぐにテーブルの上のごちそうを食べないの?>
そうすると兄が、それはおなかがすいていないからだろう、と言うんです。
すると妹はとても無邪気な口調で、
<おなかがすいてないって、どうして?>
と、きき返すんです。
(156~157ページ)
この意味わかります?
チルチルとミチルは、生まれてこの方、満腹なんて経験したことがないのです。貧しくて食べるものもままならない、そんな生活をしているものですから、常におなかがすきっぱなし。だから、目の前にご馳走があったら、すぐに手を伸ばしてガツガツと食べ始めるのが当たり前だと思っているんですね。
青い鳥を探す旅へ
ふたりは夢の中で魔法使いの老婆と出会います。
夢の中で、魔法使いはふたりにどんな幸せでも実現できる青い鳥がいるから、それさえつかまえてくれば、あなたたちの世界は豊かになるとそそのかされます。そして、チルチルとミチルは、幸せの青い鳥を探す旅に出かけます。
しかし、青い鳥をつかまえることができずに家に帰ってきたところで、夢から覚めます。結局、幸せの青い鳥なんていないんだと思いながら、ふっとかたわらをふり返ると、以前から自分たちが飼っていた鳥かごの中のきたない鳥が青い鳥に変わっていきます。
そう幸せの青い鳥は自分たちの身近なところにいたのです。
隣に住んでる足の悪い女の子にその鳥を持たせると、たちまち足が治ります。ついに幸せの青い鳥を手に入れたんだと思い、何を食べさせようかと鳥籠から出した青い鳥をとりっこしている間に、ばだばたと遠くへ飛び去ってしまいました。
幸せの青い鳥なんていない
何ともあっけない幕切れです。貧しいふたりの兄弟は幸せになれなかったのです。
あの芝居の最後の幕切れを今でもおぼえていますが、チルチルという少年が舞台の先のほうに立って、お客さんのほうに悄然とした声でうったえます。
「どなたかあの鳥をみつけた方は、どうぞぼくたちに返してください。ぼくたち、幸福に暮らすために、いつかきっとあの鳥がいりようになるでしょうから」
という力のない台詞で幕がさーっとおりるわけです。
これは一体なんだ、と、ぼくは読んでびっくりしたのです。つまり、ここでメーテルリンクがみんなに言っていることを、ぼくの裸の目で率直に見てしまいますと、結局、人間は青い鳥をつかまえることはできないという物語なんじゃないか。
(160~161ページ)
幸せは、とても身近にあるのかもしれません。
でも、この世にしあわせの青い鳥なんて、どこを探してもいないのです。しかし、チルチルは幸福に暮らすためには幸せの青い鳥が必要なんだと言っています。
これってどういうことなんでしょうか?
五木さんは、ひとつの答えを本書の中で示していますが、ここでは書きません。
僕は、ないものばかりを求めて探し続けていても、どうしようもないということではないかと思います。探しても探しても、どこにもないのだから、それを手に入れることなんてできない、それを理解しなさいと言っているように感じます。
しかし、このような考え方だと、人生に夢も希望もないですよね。チルチルは、青い鳥が必要なんだと述べていますが、その回答になっていません。
では、どうすべきか?
これを考えてみることが、実は大切なのかもしれません。