五木寛之さんの「人生の目的」という本の中に「金銭について」という章があります。
この章を読んでいると、お金との付き合い方は難しいなと感じました。そもそも、お金との付き合いに正しいとか間違っているとかあるのでしょうか?
考え出すと、答えを出すのにとんでもなく長い時間がかかるように思います。
「お金で幸せは買えるのか」「お金で不幸から脱出できるのか」「お金で買えないものはあるのか」などなど、考え出すときりがありませんね。
もうちょっと、大雑把にいうと、「金銭は人生の目的となるのか」という問いに対する答えを出すことはできるのでしょうか?
死んだらあの世にお金を持っていけないけども
人間は、死んでしまえば、あの世にお金も地位も名誉も持っていくことはできません。
だから、そういったものに縛られた人生を送るのは、むなしいことのように言う人がいます。確かに生命が終わった時、自分の身の回りにあるものは、そのまま残っているので、財布の中のお金も、死ぬ間際まで着ていた服も、あの世には持っていけないのでしょう。
でも、多くの人は、死んだ後のことよりも、今生きていることの方が大切だと考えているはずです。
しかし、私たちは死んだあとのことよりも、いま、この世間に生きているうちのほうが気になる。金や名誉なんて、と、軽く言ってのけられるのは、たぶん恵まれた人にちがいない。そうでなくても、一般人とは相当にちがう特別なプライドの持ち主ではあるまいか。(99ページ)
その通りだと思います。
人間だけでなく、ありとあらゆる生き物は、死んだあとのことよりも、生きている今の方がずっと大切だと考えているのです。だから、高度に発達した貨幣経済の世の中で生きている現代人が、お金から離れて生きていくことは、相当難しいことなのです。
富は同じ場所に集まりやすい
「人生の目的」が発刊されたのは、1999年のことです。
この頃は、バブルが崩壊して日本の景気が悪くなっていく一方でした。しかし、今のように格差が広がっているということは言われてませんでしたね。なんだかんだ言っても、多くの日本人が同じような生活レベルだったわけです。
でも、五木さんは、この頃から、格差の拡大が進むのではないかと予測していました。
最近、世の中が少し変だ。
前近代的な体質から脱皮するために、などといって、大企業がさらに合併や提携を進めている。さきごろも都市銀行の大手が合併を発表した。それはいったい、誰のために良いことだろうか。(中略)
競争相手があちこちでサービスを競っていればこそ、私たちはユーザーの立場で比較・選択できるのである。強力な寡占体制が市場に君臨するようになれば、私たちは力の前に、文句も言えずにしたがわざるをえないだろう。
一部の富めるグループはますます富み、大多数は貧しさのなかであくせく働くしかないような世の中は、すぐそこまできているのではないか。(102ページ)
強い者がますます強くなり、持てる者のもとへ富はますます集まっていく。
これが社会に対する閉塞感を助長する原因なのでしょうか?
お金はどう使えば増えていくのか?
テレビ番組、インターネット、雑誌などで、コンサルタントのような人たちが、賢いお金の使い方について解説していることがあります。
「若いうちは徹底的にお金を使いきれ」「二十代ではリスクをとって大胆にチャレンジせよ」などと、威勢の良いことを言う人がいます。若いうちに多くのことを経験するというのは有意義なことだと思います、だから、その経験のためにお金を使うことは、生きたお金の使い方と言えそうです。
でも、一方で、「まずコツコツと元手を貯めること。どんな利殖を考えるにしても、空手ではなにもできない。とりあえず百万円を目標に貯蓄をはじめなさい。百万円貯まれば、二百万円はすぐそこ、五百万円も確実だ」と、若いうちに浪費癖をつけるのではなく、堅実な生き方を指導する人もいます。
あるいは、「外に貯めるより、内に蓄えよ」と、自分自身の能力の向上のためにお金を使う、いわゆる自己投資を積極的に行うことが大切だと述べる人もいますね。景気が悪くなっても、知識や技術を身に付けておけば、とりあえず食っていけるという考え方です。僕も、この考え方には、共感する部分はあります。
このように人によって、生きたお金の使い方については、言うことが違います。でも、まったく異なることを言っていても、どれも納得できることだったりするんですよね。だから、最終的に誰の言ってることを選択して行動すべきか、わからなくなってしまいます。
五木さんは、金銭感覚について以下のように述べています。
要するに本当にしっかりした自分独自の金銭観、金銭感覚などというものは、人から教わるというわけにはいかないものなのだ。それは、それぞれの個人が、自分の生まれ育った状況と時代、もって生まれた天与の資質、人生における運、不運など、さまざまな要素の絡みあったなかから、自然に身につけることになるものではあるまいか。(111ページ)
今日、食べるものに困っている人が、将来のことを考えて自己投資をしなさいと言われても、なかなか難しいでしょう。若いうちは、お金をたくさん使えと言われても、少ない給料で、どうして散在することができるでしょうか。
結局、五木さんがおっしゃるように自らの置かれた環境の中で、金銭感覚は身につけていかざるを得ないのでしょう。
人間よりも金銭の方が偉いのか?
それまでは、裕福とは言えなかったものの朝鮮人の方たちよりも暮らしは良いほうだったのですが、敗戦によって家財道具がソ連軍の進駐と同時に接収されて、着の身着のままで放り出されることになりました。
こういった経験からなのか、五木さんには浪費癖があるそうです。
若い時、職場からの給料は手渡しで、いつも社長が、一言、感想や注意を述べた後、大切そうに薄っぺらな給料袋を渡し、それに対して、「ありがとうございました」と頭を下げなければならなかったとか。
五木さんは、これが嫌で、給料袋を受け取った後、「この野郎、この野郎!」と靴で踏みつけたり、蹴飛ばしたりしていたそうです。
そして、もらった給料はすぐに無駄づかいをしたということです。お金を少しずつ使うよりも、浪費をすればするほど、自分が人間であると実感できたからです。
この五木さんの行為には、お金よりも人間の方が偉いんだという感情があります。
でも、ほとんどの人が、もらったばかりの給料を数日で使い切ってしまったら、自己嫌悪するのではないでしょうか?
「なんて愚かなことをしたんだ」と。
この瞬間こそ、人間がお金に支配されている時なのではないでしょうか?
「金銭について」の章の最後で、五木さんはこう述べています。
金は名誉や権力と同じく、それが好む者のところへ集まってくる、というのが真実だろう。なんとも味気ない限りであるが仕方がない。(125ページ)
お金は、それを好む人のところへと動く習性があるのでしょう。
「人生はお金ではない」と言ってしまうと、ますます、お金は離れていくのかもしれません。
金銭は人生の目的となるのか?
僕は、それを肯定して生きる方が、気持ちが楽になると思います。
でも、それを言葉にすると、何か味気ない人生のような気もしますが。
- 作者:五木 寛之
- 発売日: 2000/11/01
- メディア: 文庫