ウェブ1丁目図書館

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精神力を過大評価するのは日本人の癖

1941年12月8日に始まり、1945年8月15日に終結したアジア・太平洋戦争での日本人の死者は310万人、そのうち軍人・軍属は230万人でした。

戦時中の日本の人口が7,200万人前後でしたから、割合にして国民の約4.3%がアジア・太平洋戦争で犠牲になった計算です。

軍人・軍属の230万人の犠牲者は、戦死したと思うでしょう。しかし、彼らの死をひとくくりに戦死としてしまうことには違和感があります。

戦病死と餓死

日本近現代軍事史を専門とする吉田裕さんの著書「日本軍兵士」によれば、1944年8月から1945年8月までの絶望的抗戦期での戦没者は281万人だったとのこと。アジア・太平洋戦争の最後の1年間に全戦没者の実に91%が亡くなったのです。

軍人・軍属の死者は、1941年の時点では、戦闘での死者が49.6%、戦病死が50.4%でした。あまりにも戦病死が多く感じます。しかし、この頃は、まだましな方で、中国戦線で戦っていた支那駐屯歩兵第一連隊の1944年以降の戦没者のうち73.5%が戦病死でした。

しかし、この73.5%という数字も少ない可能性があります。現場では、戦病死を戦死に読み替える事例があったからです。

さらに軍人・軍属の戦没者に占める餓死者は全体の61%や37%と推定されています。61%は過大に見積もった数値かもしれませんが、37%でも餓死者の割合がかなり高いことに違いありません。

日本軍は、敵部隊との戦いよりも、飢えや病気との戦いで亡くなった兵士の方が多かったのです。戦地で食料が不足すると、他の日本軍の部隊を襲撃して食料を奪う日本兵もいました。もはや、敵はアメリカでも中国でもなく飢えです。餓死しないために略奪も行われましたし、人肉を食べる兵士もいました。

特攻と自殺

アジア・太平洋戦争でのアメリカと日本との違いの一つは技術力です。

これは、機械と人力の差と考えられます。アメリカでは、物資の輸送に自動車を多く投入していましたが、日本は馬や人が物資を運んでいました。機械に人が向かって行っても勝てるものではありません。

装甲の厚いアメリカ軍の戦車に日本軍の機関銃は全く通用しませんでした。そこで、考え出されたのが爆弾を持って戦車に近づき爆発させるという作戦です。しかし、そのような作戦は兵士を無駄死にさせるだけです。現場から反対はあったものの、やがてこの作戦は採用されます。アジア・太平洋戦争では、このような爆死もありました。

爆死と言えば、戦闘機で敵艦に突っ込む特攻が有名です。爆弾を積んだ戦闘機で敵艦に突っ込み大打撃を与えることを目論んだ特攻でしたが、アメリカに大したダメージを与えることはできませんでした。それもそのはずで、爆弾を投下する場合よりも、戦闘機ごと降下する方が戦闘機に揚力が生じて効果スピードが遅くなります。そのため、爆弾を投下した後に体当たりするスキップボミングを実行した特攻隊員もいました。

人力で機械に対抗することには無理があります。

戦車と爆死するのも特攻も、一種の自殺ですが、日本軍兵士の中には、古参兵の私的制裁に耐えかねて自殺する者もいました。私的制裁は、今で言うパワーハラスメントです。上官の指示に従うようにするために私的制裁は容認されていましたが、それは古参兵の憂さ晴らしの側面もあったようです。

捕虜になることは許されない

人力に頼る日本軍には、精神力を鍛えれば勝てるという考え方もあったようです。

そのような考え方からか、敵の捕虜になることは許されず自決を迫られることもありました。

捕虜になることを禁じられると、傷病兵や衛生要員の残置容認という従来の方針も見直されました。足手まといとなった傷病兵は、処置という名のもとに衛生兵に毒を注射されて殺されました。

精神力を強くするための方法として刺突も行われました。初年兵を戦場に慣れさせるため、中国人の農民や捕虜を銃剣で突き殺す訓練が刺突です。訓練中、貧血に倒れる兵士、嘔吐する兵士、声を失う兵士もいたそうです。

このような残虐な訓練から、30万人を虐殺した南京大虐殺が事実だと言う人もいるでしょう。しかし、刺突の訓練中、貧血で倒れたり、嘔吐する兵士がいたのですから、30万人を虐殺することは容易ではありません。何より、トップダウンで計画を実行できるだけの統率力を持っていない日本軍が、組織的に30万人も虐殺できたとするのは買い被りすぎです。私的制裁が横行していたことからも、トップがリーダーシップを発揮できていたとは思えません。

マンパワーに頼る癖

アジア・太平洋戦争で多くの軍人・軍属が戦死しました。戦死と言っても、餓死も含めた戦病死の割合が非常に高く、衛生面や物流面で日本軍は多くの欠陥を抱えていたことがわかります。

また、アメリカが機械で作業をしていることでも、日本軍は人力で作業を行っていたのですから、技術面でも国際的に遅れていました。

食べ物もなければ武器にも差がある状況で、日本軍は兵士の精神力で乗り切ろうとします。しかし、絶望的抗戦期に入ると、老年兵や体格的に弱々しい若者も戦場に駆り出されていたのですから、精神力で乗り切ることすら困難な状況だったでしょう。

マンパワーで乗り切ろうという考え方は、現在の日本でも同じではないでしょうか?

サービス残業で仕事を乗り切るのは当たり前。景気を良くするために人口を増やすべきと言うのも、アジア・太平洋戦争の時代と変わっていません。当時は、「産児報国」をスローガンとし、女性に子供をたくさん産むことを強いていました。その結果が、現在の高齢化社会につながっていると考える人は少ないでしょう。

江戸時代末期の日本の人口が約3,000万人、そのわずか70年後には7,200万人になっていたのですから、食料も仕事も不足するのは当たり前です。

そのような状況で国はどうすべきか。

てっとり早く解決する方法は、他国の食料や土地を奪うこと。戦争で勝てば乗り切れるという発想が、明治以降の政府にあったように思います。

物資がないのに戦争をするのは愚かだと考えがちですが、物資がないからこそ戦争で手に入れようという発想が生まれるのでしょう。だから、技術力を磨くことより、マンパワーで乗り切る癖が日本人に染みついたのかもしれません。