ウェブ1丁目図書館

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早すぎた倒幕計画が明治維新を1年遅らせた

幕末。

外国人を日本から追い払おうという攘夷(じょうい)の思想が、国内に満ち溢れていました。この攘夷の思想は、やがて倒幕へと変わっていきます。

万延元年(1860年)3月3日の雪の日に起こった桜田門外の変で、大老井伊直弼が水戸浪士たちに襲撃されて斬られた頃は、まだ国内は倒幕を考えている者は皆無といってよく、攘夷が主流でした。しかし、この頃から、倒幕を意識し始めていた人物もいました。

それは清河八郎です。

幕府の権威を取り戻そうとした井伊直弼

清河八郎は、歴史上、それほど有名な人物ではないので、彼を扱った小説や時代劇では、いつも脇役です。でも、藤沢周平さんの「回天の門」は、清河八郎を主人公として描いています。

清河八郎をご存知の方は、彼に対して策士という印象を持っていることでしょう。でも、回天の門では、そういった面ばかりが強調されることなく、割と正当に評価してますね。


さて、井伊直弼桜田門で暗殺されたことは、当時、重大事件でした。大老と言えば、臨時的とはいえ、幕府政治のトップと言っても良い存在だったのですから。

黒船来航以降、幕府の権威は、失墜していきます。国内では、偉そうな顔をしていても、わずかな人数でやってきたアメリカ人には、ヘコヘコしていたのですから、当然と言えば当然です。その失墜した権威を取り戻そうとしたのが、井伊直弼だったのです。

ペリーがやってきてから、薩摩藩水戸藩などが、幕府政治に口出しをしてきます。そして、幕府も彼らの意見を無視できない状況になっていました。だから、こんなことでは駄目だということで、井伊直弼が独断で幕府政治を行おうとしたんですね。

井伊直弼の死は倒幕に何の影響も与えなかった

井伊直弼は、朝廷の意見を聞かずに開国を決定します。これに対して、けしからんという意見が沸き起こりましたが、本来、国内の政治は幕府が一手で行っていたのですから、井伊直弼の独断は、当時としては当たり前のこと。

そして、幕府に口出しする者たちを次々に捕えて処刑にしたり、謹慎処分にしたりしました。これが安政の大獄です。

しかし、井伊直弼は、幕府の権威を取り戻すために少々やりすぎました。だから、彼に手厳しくいじめられた水戸藩の家臣たちが脱藩して、桜田門で仕返しをしたのです。


大老が暗殺されたのですから、幕府はもちろんのこと、民衆たちも驚いたことでしょう。でも、桜田門外の変が起こったことで、幕府が瓦解に向かったかというとそうでもありません。また、井伊直弼大老となったことで、幕府が権威を取り戻したということもありませんでした。

最初の黒船来航のとき、幕府はこの国の政治の当事者として、適切な対策を打ち出すことが出来ずに、みずからの無能を暴露してしまったのだ。
幕府の自壊はそのあたりからはじまっている。井伊の登場はその崩壊の作用に歯止めをかけるようなものではなかった。井伊は回りすぎた捩子をわずかに巻きもどそうと試みたにすぎない。針はその間にも進んでいたのだ。井伊の死は、そのことを証明している。(279ページ)

桜田門外の変が起こった時は、まだ多くの人々が幕府中心の政治を当たり前と思っていました。ただ、今の幕府政治を改革しなければならないとは考えていたのですが。

しかし、清河八郎は、そうではありませんでした。国を外圧から守るためには、幕府に変わる政治体制を築かなければならないと考えていたのです。

「幕府は変わりはせんよ。攘夷を言う者はやはり狙われるぞ。軽率には動かん方がいいな」
「井伊が倒れても、幕府は変わらんというのか」
「変わらん。ただ少しずつ自滅の道をたどっていることは確かだがな」
「わからんぞ、清河の言うことは」
「諸君には見えんのか」
八郎は少し傲然とした口調で言った。行動に踏みきるからには、誰にも遠慮した口はきかないぞと少し昴った気分になっていた。
「おれには新しい仕組みが見えてきた。われわれは、幕府にかわる政治の仕組みを考えるときがきているのだ。それでないと、本当の攘夷は出来ん」
(285ページ)

浪士組の結成

桜田門外の変から2年が経った文久2年(1862年)に薩摩藩島津久光が、藩兵を率いて上洛しました。島津久光は、朝廷から幕政改革の勅諚を得てから江戸に行き、政治体制を一新しようと考えていたのです。

この時、島津が倒幕に動き出したと噂を流したのが清河八郎でした。彼は口が達者でした。だから、諸方で、島津が倒幕に動き出したと説いてまわれば、それを信じる志士たちがたくさんいました。

清河八郎の話を信じた志士たちが、続々と京都に集まってきます。

それを知った島津久光は、倒幕など考えていなかったので、そういった志士たちが京都の寺田屋に集結しているのを知った時、家臣に彼らの捕縛を命じました。これが寺田屋事件です。


清河八郎の倒幕計画は、寺田屋事件でいったんは消失しました。しかし、彼は、再び、倒幕のためのアイデアを思いつきます。

それは、諸国の浪士たちを幕府の資金で集めて、彼らを攘夷の先兵とすることでした。しかし、幕府が浪士を集めるなんてことは、普通に考えてあり得ません。何といっても、浪士たちは、当時、治安を悪化させている元凶だったのですから。

でも、そこは、口のうまい清河八郎。まずは、幕臣の山岡鉄太郎にその案を話し、山岡から松平上総介、松平から幕閣にその案が持ち込まれました。そして、浪士組を結成して治安の維持にあたらせることが決定します。

予期せぬ離脱者

清河八郎のもくろみ通り、幕府の資金で浪士たちを集めることができました。

それも300人近い人数です。これだけの人数が集まれば、浪士とは言え、何か行動を起こすのに不足ということはないでしょう。しかし、こんなにたくさんの浪士が集まったことに幕府は戸惑います。いつまでも、江戸に彼らがいたのでは何をしでかすかわかりません。そこで、将軍上洛にあわせて、浪士組も京都に向かわせることにしました。


京都に到着した浪士組。

ここでも清河八郎の口は達者でした。彼は、上洛したばかりの浪士たちに今からすぐに江戸に戻り、横浜にいるイギリス人を追い払いに行くと言いだしました。彼は、浪士組を横浜焼討から倒幕へと向かわせるつもりでいたのです。

清河八郎の演説により、多くの浪士たちが彼にしたがって江戸に引き返すことにしました。しかし、清河八郎に従わずに京都に残った浪士も十数人いました。それが、後に新選組を結成する近藤勇芹沢鴨(せりざわかも)たちです。


清河八郎は、脱退者を無視して浪士組とともに江戸に引き返し、攘夷実行の計画を立てます。しかし、計画実行の直前に彼は、幕臣佐々木只三郎に暗殺されてしまいました。

まだ、世論は幕府を当たり前の存在と思っていた時だったので、清河八郎の倒幕論は、時期尚早だったのでしょう。あと1年でも、清河八郎が行動を起こすのを我慢していれば、彼の人生は違ったものになっていたかもしれません。


清河八郎にとって皮肉だったのは、彼が結成した浪士組の中から新選組が誕生したことです。

新選組は、元治元年(1864年)に京都の池田屋で、多くの志士たちを捕縛したり斬ったりしました。その中には、宮部鼎蔵(みやべていぞう)や吉田稔麿といった将来を嘱望された者たちもおり、池田屋事件で、明治維新が1年遅れたと言われています。

清河八郎の早すぎた倒幕計画が、結果的にそれを1年遅らせてしまったんですね。

回天の門 (文春文庫)

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