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ウェブ1丁目図書館

読書で得ること感じること。ここはウェブ1丁目にある小さな図書館です。本の魅力をブログ形式でお伝えしています。

邪馬台国は統一国家か地方政権か

日本史

日本には、3世紀頃に邪馬台国という国があったようです。

歴史の教科書にも出てくるので、邪馬台国は実在していたのでしょうが、邪馬台国が固有名詞だとは言い切れず一般名詞であった可能性が捨てきれません。邪馬台国があったとされる場所も、九州説と畿内説で議論がありますから、邪馬台国に関してはまだまだ謎が多い状況です。

そして、邪馬台国が古代日本を支配していた統一国家だったのか、それとも数ある地方政権のひとつだったのかについても論者によって見解が分かれています。

邪馬台国卑弥呼も一般名詞?

大臣官房情報管理課長や国土庁長官房参事官を勤めたことがある八幡和郎さんは、著書の「本当は謎がない『古代史』」で、邪馬台国卑弥呼も当時の中国人が蔑称として不快な漢字を使って、そう呼んだだけだと述べています。古代日本を知る史料として有名なものに中国の魏志倭人伝があります。この中で邪馬台国と対立していた狗奴国(くなのくに)の男王の名を卑弥弓呼(ひみここ)としているので、卑弥呼は単に女性の支配者を意味する一般名詞だったのだろうということです。

そもそも一国の女王が、自分の名に「卑しい」という漢字を当てるのは不自然です。それなのに現代まで邪馬台国の女王の名が卑弥呼だったと伝えられているのは、八幡さんによると、単に当時の日本で漢字はおろか、文字すら使う習慣がなかったからだとか。

日本にまだ文字が伝わっていなかったこの時期に、「卑弥呼の手紙」などというような、高度な外交文書を中国語で作成する能力が邪馬台国内に備わっていたとは考えられず、文書作成は大陸で行われたとみるべきである。
そうであれば、内容も洛陽の政府に好ましく受け取られるように中国で書かれたのであって、邪馬台国側の意図が正確に反映されたものとは期待できない。
(116ページ)

「ヒミコ」に「卑弥呼」という漢字を使うのは、中国側の単なる当て字でしかないと言えるでしょう。そして、それ以上の意味を卑弥呼の文字から見出すことは難しそうです。

外国に使者を送った国は大きな国なのか?

邪馬台国があったであろう時期に畿内に大きな国があったとされることから、これが邪馬台国ではないかと考えられています。

邪馬台国卑弥呼は、先進国の中国に使者を派遣するほどの強大な権力を持っていたのだから、彼女が支配する国は非常に大きなものだったに違いない、だから、邪馬台国畿内にあったのだと。そして、邪馬台国は発音が「やまと」と似ているので、これは昔の奈良を表す「大和」と考えられるから、邪馬台国は奈良辺りにあったのだろうと推測します。

確かにそう考えられなくもありません。

しかし、外国に使者を送っただけで、強大な国の証となるのでしょうか?これに対して八幡さんは、以下のように述べています。

戦国時代に天正遣欧使節を送り出した大友宗麟たちや、イスパニア支倉常長を送った伊達政宗が全国最強の大名だったわけでないのと同じで、卑弥呼が魏に使いを出したから日本列島で最も栄えて強力な国であったことには結びつかない。
(122ページ)

現代人の感覚だと、外交は国と国が行うものだと考えがちです。しかし、現代でも、地方都市同士で姉妹都市宣言をすることがありますから、古代においても、地方政権が大国に使者を送ることはあったのかもしれません。

したがって、邪馬台国が、当時の中国で大きな力を持っていた魏に使者を送ったからと言って、それが日本を代表する最も大きな国だったとは言い切れないのです。

日本の統一国家は4世紀に成立

邪馬台国畿内にあったとする理由に邪馬台国大和朝廷が同一の存在だったとする見解があります。

しかし、このように考えると日本書紀の記述と矛盾する点が出てくると、八幡さんは指摘しています。

日本書紀』の記述によれば、大和朝廷が北九州に進出した時期は仲哀天皇や神宮皇后の時代であるとされているが、それは、考古学的にも大陸の文献との照合からも四世紀のことと推定されている。もし、三世紀の崇神天皇以前、それも、二世紀後半に擁立されたと中国の史書に書かれている卑弥呼の時代に統一国家が成立していたとすれば、なにゆえ期間にして二世紀近くもの間、記念すべき統一や海外との交流実現を実際の世代より遅らせるような正史が成立したのか、動機が説明できないではないか。
(124ページ)

邪馬台国が統一国家で、しかも、大和朝廷と同一の存在だったとするのなら、中国の三国時代、すなわち3世紀頃に大和朝廷は日本の大部分を統一していたことになります。

しかし、日本書紀から推定して大和朝廷が統一国家になったのは4世紀頃なのですから、それ以前に統一国家が日本にあったと考えることには無理がありそうです。邪馬台国大和朝廷を同一視することはさらに困難になるでしょう。

魏志倭人伝によると、邪馬台国は20ヶ国以上を支配する女王国で、敵対勢力である狗奴国に対抗するため、魏に使者を送ったとなっています。邪馬台国からの使者は265年を最後に魏に来なくなったとあるので、この頃に邪馬台国で何かが起こったと考えられます。

普通に考えると、3世紀の中頃に邪馬台国は滅びたとなりそうです。もしも、邪馬台国が敵対勢力を排除し統一国家を築いたのであれば、その後も中国に使者を送っていたという記述が、中国の史料から出てきそうなものです。

邪馬台国は北九州の地方政権だった?

八幡さんは、邪馬台国は北九州のどこかにあったと推測しています。そして、敵対する狗奴国も、その近くにあったのだと。

邪馬台国はまったくの地方政権であり、卑弥呼はささやかな女酋長のようなもので、当時においても日本を代表する存在であったわけでもなんでもないということになる。
こうした可能性が圧倒的に高く、わずかに、出雲、吉備、丹後、あるいは山背方面などの可能性も皆無でないといったあたりが現段階での合理的な分析でないのか。
(127~128ページ)

先にも述べましたが、邪馬台国があった時代には日本で文字が発達していませんでした。

したがって、どんなに2世紀や3世紀頃の遺跡が新たに見つかっても、それだけで邪馬台国と関係のある遺跡だとは断定するのは困難です。

邪馬台国の場所はここだ」と言い切るためには、やはり、文字などの何らかの記録が見つからなければ厳しそうですね。

本当は謎がない「古代史」 (ソフトバンク新書)

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