日本の誕生から古代の歴史までを記録した史料に古事記と日本書紀があります。両者を合わせて記紀と称されることもあります。
両者の記述は、似ている部分もあれば異なっている部分もあります。古事記が国内向けであるのに対して、日本書紀が海外向けであったという目的の違いが記述の違いになっているのかもしれません。
特に両者の違いが顕著に表れているのが、ヤマトタケル(日本武)伝説です。
ヤマトタケルを荒々しく描いた古事記
記紀を全て読むのは、現代語訳された書籍でも骨の折れる作業です。
ざっくりと内容を把握するのであれば、坂本勝さんが監修している「図解地図とあらすじでわかる!古事記と日本書紀」がおすすめです。200ページほどしかない新書に古事記も日本書紀も掲載されていますから、初学者にはとても読みやすくなっています。
さて、ヤマトタケルは、古代において日本各地の征討に活躍した人物です。父は12代景行天皇です。景行天皇は子だくさんで、そのうちのワカタラシヒコ、オホウス、ヲウスの3人の御子を皇子と定めます。この中のヲウスが後のヤマトタケルです。
ある時、天皇はオホウスに三野のエヒメ、オトヒメという美しい姉妹を連れてくるように命じます。しかし、オホウスは、姉妹を自分の妻にして、別の女性2人を天皇に送ります。
これに怒った天皇は、ヲウスにオホウスをねんごろに教え諭してくるように命じました。すると、ヲウスは、オホウスを掴み潰し、手足を引きちぎって打ち捨ててしまいました。ヲウスは、ねんごろに諭すようにという天皇の言葉をいかつい方々がよく使う「かわいがってやれ」という言葉と受け取ってしまったのです。
これを知った天皇は、ヲウスが怖くなり自分から遠ざけるため征西へ向かわせました。
各地で活躍するヤマトタケル
ヲウスは、叔母のヤマトヒメから懐剣などを贈られ、大和朝廷を代表して九州のクマソタケル兄弟の反乱を鎮めに行きます。そして、見事征伐し、弟から「ヤマトタケル」の名をもらい、以後、そのように名乗るようになります。
さらにヤマトタケルは出雲のイズモタケルを討伐、見事に九州と中国地方を平定し、大和に凱旋しました。
しかし、天皇は、彼に休む間も与えず、今度は東征に赴くように命じます。この時、ヤマトタケルが天皇が自分を早く死なせようとしているのではないかと叔母のヤマトヒメの前で涙を流したことから、ヤマトヒメは彼に草薙剣とともに袋を授けました。
ヤマトタケルは、次々に征討を成功させていきます。
相模国では、野原に誘い込まれたヤマトタケルが敵から火攻めに遭いましたが、草薙剣で草を薙ぎ祓い、袋に入っていた火打石で野原に火を放って迎え火で反撃し、見事生還します。以来、この地は焼津と呼ばれるようになります。
ヤマトタケルの東征はさらに続き、各地の荒ぶる神々を従えていきます。時にはオトタチバナヒメを偲んで、「あづまはや(我妻よ)」と足柄山で嘆き、後にこの場所が「あづま」と呼ばれるようになりました。
天皇の命に従い、戦い続けたヤマトタケルに最期の時が訪れます。能煩野で動けなくなったヤマトタケルは故郷を偲ぶ歌を歌って息を引き取ります。この知らせを受けた妻と御子たちは、彼の陵を作りました。すると、陵から白鳥が舞い上がり、河内国の志畿を過ぎて遠くへ羽ばたいていきました。
日本書紀では日本武の死を天皇が悲しむ
一方の日本書紀では、日本武は景行天皇に疎まれていたという記述はありません。むしろ、日本武が亡くなった時、天皇は大いに悲しんだとされています。
日本武が日本各地の征討に赴いたことは、古事記も日本書紀も同じなのですが、古事記がヤマトタケルを大和から追い払うように征討に向かわせたのに対して、日本書紀では天皇自ら征討に出発しています。
日本武が征西に出発したのは、天皇の征西から12年後のことです。この時には、すでにクマソタケルは天皇に征伐されていたので、日本武が征伐したのは、川上梟帥(かわかみのたける)とされています。
日本初期でも後に日本武は、古事記と同じように征西の途中で亡くなります。大筋では、古事記も日本書紀も同じなのですが、天皇の心情が両者でまったく異なっているのが興味深いですね。
記紀でヤマトタケルに対する天皇の扱いが異なるのはなぜか?
古事記と日本書紀で、景行天皇の心情が異なっているのはなぜなのでしょうか?
もしかすると、それは、古事記が国内向け、日本書紀が海外向けとして編纂されたことと関係があるのかもしれません。
大和朝廷が武力によって地方豪族を服従させたのですから、征服された方からすると天皇は侵略者です。いつまでも天皇に対する負の感情が地方に残っていたのでは朝廷による全国統治は難しいでしょう。だから、国内向けの古事記には、ヤマトタケルを征討のトップとして描き、景行天皇も彼を疎んでいたと書くことで、地方豪族の朝廷に対する恨みをそらしたのかもしれません。
これとは逆に日本書紀は海外向けですから、天皇の力を強大に描きたかったのではないでしょうか?
景行天皇が自ら征討に出発したと記載しておけば、日本書紀を読んだ諸外国の為政者は、大和朝廷は大きな力を持っていると思うでしょう。また、日本武の死を悲しむ天皇の姿を描いておけば、大和朝廷のトップである天皇の慈悲深さが伝わるに違いない、そういった思惑があったのかもしれません。
古事記も日本書紀も成立したのは700年代前半です。そして、どちらも編纂の開始は、天武天皇の命によるものです。同じ天皇によって編纂が命じられている時点で、何か裏がありそうです。
現代の政治でも、大統領や首相が、国内向けの発言と海外向けの発言を使い分けることはよくあります。
いつの時代でも、国を統治する為政者は、同じ行動をとるのかもしれませんね。
図説 地図とあらすじでわかる!古事記と日本書紀 (青春新書INTELLIGENCE)
- 発売日: 2009/01/07
- メディア: 新書