ウェブ1丁目図書館

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伊庭八郎の士道を貫かせた花魁小稲

その隻腕の剣士が活躍したのは、慶応4年(1868年)の5月下旬。

西から攻め来る官軍を箱根で迎え撃つため、旧幕府の遊撃隊が出陣しました。遊撃隊を指揮していたのは、人見勝太郎と心形刀流の使い手伊庭八郎。

両軍は箱根三枚橋で激闘を繰り広げます。この時、伊庭八郎は腰に銃弾を受け尻餅をついたものの、2、3人を斬り倒しました。しかし、この戦いで彼は左手首を斬り落とされる重傷を負います。それでも片腕で戦い続けた伊庭八郎。敵を薙ぎ払った刀が岩をも斬ったと噂され、後に伊庭八郎百人斬り伝説も生まれました。

横浜潜伏

箱根の戦い後、伊庭八郎は長崎丸に乗って品川沖へ戻ります。

作家の中村彰彦さんの著書「ある幕臣戊辰戦争」によると、伊庭八郎は品川沖で幕臣榎本武揚の艦隊のうち美加保丸に乗って箱館を目指したのですが、台風にあって漂流します。なんとか上陸できた先は、敵の高崎藩領。乗員約700名は、高崎兵が来襲する前に解散し、個々に箱館を目指すこととなりました。

この時、伊庭八郎は箱館に行けないのなら切腹しようと考えましたが、中根香亭に制止され時期をみることにします。

上総に潜伏していた伊庭八郎をなんとかして箱館に行かせたいと思う中根香亭は、外国船が行き交う横浜に向かうことを提案。そして、横浜では、尺振八を頼ることにしました。

花魁小稲

横浜に潜伏する伊庭八郎は、友人の本山小太郎とともに官軍が持つ甲鉄艦を奪って箱館に走る計画を立てます。しかし、人も集められない、軍艦を動かす技術も持たない二人は、この計画を断念せざるを得ませんでした。

正攻法で箱館を目指すなら、箱館行きの船に乗る必要があります。しかし、船に乗るには50両のお金が必要です。明治新政府に見つからないように隠れながら生きている伊庭八郎には、そのようなお金はありません。

そこで伊庭八郎は、吉原の花魁小稲に50両を用立ててもらうことを考えます。彼は、本山小太郎に1通の手紙を持たせ吉原に向かわせようとします。しかし、本山小太郎は、幕臣としての士籍をはく奪された今の伊庭八郎に50両を貸すはずがないと拒みます。

それでも、伊庭八郎は小稲に限ってそのようなことはないからと、本山小太郎を吉原に向かわせました。

吉原の稲本で小稲にあった本山は、彼女に伊庭八郎を知っているかと訊ねます。すると、小稲は知っていると答えます。その時の様子が伊庭八郎を慕っているように見えたことから、本山は彼女に八郎からの手紙を渡しました。

手紙を読んだ小稲は、今すぐにはお金を用意できないから明日まで待ってくれるように本山に頼みます。そして、翌日、小稲は約束通り50両を本山に手渡しました。

当時の50両というお金は、現在の1千万円程度でしょうか。江戸時代中期に17歳の娘を25歳まで奉公に出した父親が受取ったお金が、126両という記録が残っているので、50両は今の会社員だと3年ちょっとの給与総額と言えそうです。

しかも小稲が用立てて本山小太郎にわたした五十両とは、愛しい情人への単なる付け届けではなかった。小稲も本山から聞いて理解していたことと思うが、隻腕となってしまった伊庭八郎が箱館をめざす目的は「今一度快戦すること」、そしてみごとに討死し、武名を後世に伝えることなのである。
そうと知りつつも、あるいは自分の年季奉公が長引くのを覚悟しながらも、五十両を差し出したのは女の意地というものか。いずれにせよ八郎は旧幕臣仲間の男の友情と名妓小稲の助けにより、ついに箱館へむかうことになるのであった。
(167ページ)

小稲にとっては、50両は二度と帰ってこない大金。

それを手に伊庭八郎は、本山小太郎とともに箱館渡航し、半年後に戦死しました。


横浜に潜伏していれば、そのうちほとぼりが冷めて何事もなかったかのように明治を生きることができたかもしれません。旧幕臣でも、そのように後半生を生きた人はたくさんいます。あの新選組隊士でさえも、平穏に暮らすことができたのですから。

現代人にとってはかなり異様に感じられるかもしれない。しかし武士たちは、戦国から幕末維新の時代まで、士道に反してまで長生きするよりも、名を残して花と散ることをもって良しとした。
(225ページ)

伊庭八郎も、このような武士だったのでしょう。