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ウェブ1丁目図書館

読書で得ること感じること。ここはウェブ1丁目にある小さな図書館です。本の魅力をブログ形式でお伝えしています。

年齢の離れた大人に褒められたら警戒しろ

時代小説

天下を統一した徳川家康が苦手としていたのが城攻め。

家康は、野戦にはめっぽう強かったのですが、城にたてこもった敵と戦うのが非常に下手でした。だから、関ヶ原の戦いの時も、西軍が城にたてこもらないように様々な策を講じて、野戦に持ち込み、そして勝利しました。

関ヶ原の戦いで、天下をほぼ掌中に収めた家康でしたが、徳川の世を確実なものとするためには、豊臣秀頼を滅ぼさなければなりません。しかし、秀頼がいるのは、その当時、東洋一の防御力を誇っていた大坂城。城攻めを得意とする武将でも、そう安々と落とせるものではありません。

家康の15年計画

関ヶ原の戦いから豊臣家の滅亡までの15年間を描いた司馬遼太郎さんの時代小説「城塞」を読むと、徳川家康が15年間かけて少しずつ大坂城を攻略していく過程を知ることができます。

大坂城を攻略するためには、まず、豊臣秀頼がその父秀吉から相続した莫大な財産を削っていく必要があります。そのために家康が考えたのが、秀頼に諸国の神社やお寺を修復させたり再建させたりすること。

関ヶ原の戦いの直後は、まだ秀頼は幼かったので、寺社の修復を了承したのは、彼の母親の淀殿であり、秀吉の時代から豊臣に仕えてきた片桐且元でした。ちなみに京都に残る有名な神社やお寺は、この時、豊臣秀頼の名で再建されたものが多いですね。

豊臣が寺社を1ヶ所修復したら、また、徳川が古びた神社やお寺を見つけ、豊臣に再建させます。これを何度も繰り返すことで、少しずつ豊臣の財産を減らしていったんですね。

強引に大坂冬の陣を起こす

関ヶ原の戦いから14年後。

徳川と豊臣の間で大坂冬の陣が起こりました。

合戦の原因は、豊臣秀頼が修復した方広寺の大梵鐘に「国家安康」と「君臣豊楽」という2つの銘が刻まれていたことです。国家安康は徳川家康を呪う言葉であり、君臣豊楽は豊臣の栄華だけを願うものだと、難癖をつけたんですね。少々無理がありそうですが、家康にとっては、どうでもいいこと。とにかく武力で豊臣家を滅ぼすことが、彼にとっては重要なことだったのです。


徳川と戦わなければならなくなった豊臣秀頼は、諸国から関ヶ原の戦いの後、牢人となった武将たちを金で雇います。その数は10万人を超えたと言われています。これほどの兵が籠城するには、かなりの量の兵粮が必要ですし、何より、10万人も雇うには、莫大な資金が必要だったはずです。

現代の大企業でも、10万人を雇うのは難しいでしょう。また、誰もが知っている大企業でも、一度に10万人も雇えるだけの資金を持ってはいないはずです。そう考えると、秀吉が残した財産は、日本の国家予算を超えていたかもしれませんね。

大坂城を攻略できないから和睦

大坂との開戦を決心した家康でしたが、彼はすぐに和睦を決断します。

ただでさえ家康は城攻めが苦手なのに東洋一の城郭大坂城を落とさなければならないのですから、最低でも攻略するのに5年はかかります。しかも、大坂城を守るのは、真田幸村後藤又兵衛といった名将です。彼らとまともにぶつかりあったのでは、いくら40万の兵を動員した徳川でも、苦戦は必至です。

実際に真田幸村が守る大坂城の南の真田丸に攻撃を仕掛けた前田勢は、大打撃を受けたのですから、容易に城に近づくこともできません。

だから、家康は、力で大坂城を落とすのではなく智慧で攻略することにしたのです。それが、豊臣といったん和睦するということでした。

敵の人事を知る

家康は、和睦の際、大坂城に巧妙なワナを仕掛けます。

「和睦の条件は、大坂城の外濠を埋めるということだったのに内濠まで埋めたことでしょう」

と、多くの方が想像したことでしょう。確かに大坂城の外濠と内濠を埋めることは、家康にとって重要なことではありました。しかし、家康にとって、もっと重要なことがありました。

それは、大坂城内の人事を操ることです。


大坂城では、表向きは豊臣秀頼が最高権力者でしたが、実権を握っていたのは彼の母親の淀殿でした。そして、事務を取り仕切っていたのが大野修理です。

豊臣方で、実戦を経験しているのは、金で雇った牢人たちばかり。もしも、真田幸村後藤又兵衛が戦いの総司令官となったら、そう簡単に大坂城を落とすことはできません。40万の兵力を動員できる家康ですから、力攻めをすればどうにかなるでしょうが、それをした場合、味方の損害は計り知れません。

後々のことを考えると、徳川の世を盤石にするためには、力攻めは控えたいところです。

そこで、家康が目をつけたのが、大野修理でした。

大野修理を褒めちぎる

大坂城の攻略を容易にするためには、無能な者に大坂方の采配をとらせること。

実戦経験のない大野修理が大坂城の采配をとれば、次こそは安々と城を落とせるに違いないと考えた家康は、大坂冬の陣の和睦の後、大野修理と対面し、彼を褒めちぎりました。

家康は修理を引見したとき、
「やあ、―修理か」
とさもうれしげに修理の顔をのぞきこみ、人というものはおもしろいものよ、大野修理といえばまだまだ物に馴れぬ若輩とおもうていたのは当方のあやまり、このたびの大坂籠城にあたって総大将の采をとり、きき分けのむずかしい牢人どもをあたまからこなしつけ、ひとびとを部署して大坂の駆けひきをみごとやってのけた腕前は、天下に類がない。・・・・・
賞めているのは、弓矢をとっては日本一という徳川家康である。修理は、
―まさか。
とおもわねばならぬ冷静さを失ってしまったのは、相手が家康だからであった。
家康にすれば、ここで修理をおだてておかねばならない。(中巻402~403ページ)

この時の大野修理の気持ちは、現代で例えると、野党の若手議員が総理大臣からべた褒めされるようなものでしょう。親子ほどに年齢が離れているだけでなく、合戦においては日本一とされる家康に称賛された大野修理は、きっと有頂天になったはずです。


この瞬間、大坂夏の陣は、終わっていたのかもしれません。

家康が最も恐れていたのは真田幸村後藤又兵衛でしたが、幸村の作戦は大野修理に聞き入れられず、後藤又兵衛も早々に合戦で討ち死にします。

そして、敗色が濃厚になった時、蔵に隠れていた豊臣秀頼淀殿は自害して果て、大野修理も蔵を爆破してこの世を去りました。


自分の親ほどに歳の離れた大人が、自分のことを褒めてくれると、誰でも嬉しくなるものです。褒めてくれた人が、その世界で功績を残していたり、立派な肩書を持っていたりしたときには、なおのこと。

でも、そのような場面に遭遇した時、

「相手は徳川家康なのか?自分は大野修理なのか?」

と、冷静になって自問する必要があるのではないでしょうか。

関ヶ原〈上〉 (新潮文庫)

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