ウェブ1丁目図書館

ここはウェブ1丁目にある小さな図書館です。本の魅力をブログ形式でお伝えしています。なお、当ブログはアフィリエイト広告を利用しています。

個体の死が種の繁栄につながる

「生き残れるのは、最も強い者でも、最も賢い者でもなく、変化に適応できた者だ」

自己啓発書などでよく見る文章ですね。しかし、これは、半分間違っています。いや、もっと間違っているかもしれません。ダーウィンの進化論から、このような表現が使われるようになったのでしょうが、正しく書き直すと以下のようになります。

「生き残れるのは、最も強い者でも、最も賢い者でもなく、偶然変化に適応できた者だ」

生物進化は、自らの意思で起こるのではありません。自分の意思とは関係なく起こるのです。

進化は進歩ではない

生物は、常に進化を続けています。進化は、遺伝子の変異で起こり、その変異が環境適応に不利に働かなければ、個体の生存に不利になることはありません。しかし、変異が環境適応に不利に働けば、個体の生存に不利になります。

遺伝子の変異は、偶然起こるので、進化は単なる変化でしかありません。そして、進化は生存に有利に働くこともあれば、不利に働くこともあるので、進化が必ず進歩につながるわけでもありません。この辺りの誤解から冒頭のような格言が生まれたのでしょう。

個体にとって時に不利に働く進化は、なんとも残酷です。分子古生物学を専門とする更科功さんの著書『残酷な進化』は、ヒトやその他の様々な生物を例に進化とはどのようなことなのかを一般向けにわかりやすく解説しています。

例えば、ヒトの心臓は、肺から取り込んだ酸素を体の隅々まで送るために重要な臓器ですが、進化上の設計ミスがあると言われます。年を重ねると心臓が弱り、狭心症心筋梗塞になることがあります。これらは生活習慣に問題があって発症することが多いですが、どんなに健康な生活をしていても一定の割合で発症します。

進化の過程で、心臓における冠状動脈の欠陥が取り払われそうなものです。しかし、ヒトが狭心症心筋梗塞を発症しないように自然淘汰のメカニズムは働かなかったようです。

自然淘汰は、子孫をより多く残せる形質を増やすものであり、生殖年齢を過ぎて発症する狭心症心筋梗塞自然淘汰により減らすことはできないのです。したがって、どんなに進化により少々不便な体になったとしても、子孫を残すことができれば、その不便さは次世代に引き継がれます。反対にどんなに便利な体になったとしても生殖年齢に達するまでに死んでしまえば、その便利な体が次世代に引き継がれることはありません。

進化は、必ずしも進歩につながるわけではないのです。

ミルクを飲めるようになった人類

赤ちゃんは、母乳から栄養を補給します。母乳には、乳糖(ラクトース)が含まれていますが、これを消化するためには、ラクターゼという消化酵素が必要になります。

ラクターゼは、赤ちゃんの時には体内で作られますが、乳離れすると作られなくなります。だから、大人になってミルクを飲むと、乳糖を分解できず、下痢をしてしまいます。

しかし、多くの現代人は、牛乳を飲んでも下痢をしません。これは、乳離れした後も、体がラクターゼを作り続けているからです。一方で、昔ながらのヒトは、大人になるとラクターゼが作られなくなるので下痢をします。これをラクトース不耐症といいます。ヒト本来の働きなのにこのような名称で呼ばれるのはなんだか腑に落ちないですね。

では、大人になってもラクターゼを作れる人はどうかというと、こちらもラクターゼ活性持続症と呼ばれています。結局、どちらに転んでも、ヒトは乳糖に対して病気扱いされるわけです。

さて、乳離れしたら作られなくなるはずのラクターゼが、なぜいつまでも作られ続けるようになったのでしょうか。

それは、家畜のミルクを飲む方が生存に有利な環境があったからです。

大人になっても、ラクターゼを作ると、体内に取り込んだ栄養素が無駄に消費されてしまいます。だから、本来、ミルクを飲まなくなる年齢になればラクターゼを作らないようにした方が、栄養素を他の生存に必要な細胞や組織に回すことができます。この場合、生存にとって有利なのは、ラクトース不耐症と言えます。

ところが、人類がウシやヤギなどの家畜を育て、ミルクを飲むようになるとラクターゼ活性持続症の方が、より多くの栄養素を補給可能となります。別にミルク以外から獣の肉などを食べて栄養補給をしていれば、ラクトース不耐症であっても生存に不利にはなりません。だから、どちらの場合も、生殖年齢に達すれば、子孫を残せますが、もともとラクトース不耐症がヒトの標準形なのですから、人類全体で見ればラクトース不耐症の人、つまり牛乳を飲むと下痢になる人の方が圧倒的に多くなくてはいけません。

それなのに牛乳を飲んでも下痢をしないラクターゼ活性持続症の人が多いのは、そこに自然淘汰のメカニズムが働いたからだと考えられます。清潔な水を飲めない環境での水分補給が、家畜のミルクだけといった状況だった場合、ラクトース不耐症の人は、ミルクを飲むたびに下痢をして体が弱っていき、生殖年齢に達する前に死んでいったはずです。そうすると、ミルクを飲めるラクターゼ活性持続症の人が生き残り、子孫もラクターゼ活性持続症の人ばかりになったと考えられます。

ラクトース不耐症の人が、これからはミルクの時代だと言って、牛乳を飲みまくったとしてもどうすることもできません。だから、環境に適応しようとしても、遺伝子に変異が起こらない限り、自らの意思ではどうすることもできないのです。

死があるから進化する

生命には常に終わりがあります。それを我々は死と言います。

生物には必ず死があるかというとそんなことはなく、昔の生物には寿命がありませんでした。なんと羨ましいことでしょう。

しかし、生物に死がないと、種の絶滅につながるというのですから複雑な気持ちになります。

自然淘汰は、環境に適応した個体が生き残ることを意味します。自然淘汰が起こると、死ぬ個体が出てきます。それは、環境に適応できなかった個体です。種の絶滅を防ぐためには、自然淘汰のメカニズムが働き、今現在の環境に適応できない個体が排除され続けなければなりません。

確かに生命に終わりがなく自然淘汰が起こらない方が個体にとっては幸せかもしれません。しかし、ある時、地球の環境が変化した場合、その変化した環境に現在の個体全てが適応できなかったら、種の滅亡につながります。自然淘汰のメカニズムが働き続けるからこそ、種の存続が可能となるのです。

また、地球上で生存できる生物の数には限界があります。限界を超えて子孫を残そうとしても、それは無理な話です。一つの個体が死ぬことは、新たな個体の誕生につながります。個体の死と種の保存は表裏一体です。なんと残酷なことでしょうか。

日本神話には、ニニギが容姿端麗なコノハナサクヤヒメを妻とし、彼女の姉のイワナガヒメの容姿がよろしくなかったことから妻としなかった話があります。不老長寿の力を持つイワナガヒメをニニギが妻としなかったから、神々には寿命が定められたと伝えられていますが、生物進化の視点から見ると、この話はあながち嘘ではないように思えます。