日本人は、無宗教の人が多いと言われています。
確かに日常生活の中で、宗教を意識することは少ないです。初詣や節分など、何か宗教行事がある時にちょっと参加してみるといった程度の関わりはありますが、それら行事への参加も、宗教をあまり意識していないのではないでしょうか。
ただ、葬式の時だけは、仏式で行われることが多いため、ほとんどの日本人が、一生のうちで仏教と関わる機会を持っています。でも、現代日本人にとって仏教とは葬式仏教であり、無意識のうちにお寺も葬儀会社も同じようなものと捉えているように思います。
人の死が寺にとっての重要な収入源
現代日本人が仏教と関わる機会は、多くの場合、葬式や法事だけですから、お寺の収入も葬式や法事に依存している場合がほとんどです。
檀家からの寄付も、お寺の収入源ですが、それも葬式や法事と関係していることが多いですから、お寺は、人の死なくしては存続するのが難しくなっています。
僧侶の高橋卓志さんは、著書の「寺よ、変われ」で、中学生の時、同級生から「お前の家は、人が死んだら儲かる」と言われたことに屈辱を感じたそうです。そして、「坊さんにはなりたくない」と思い、大学では仏教学ではなく史学を選んだそうです。しかし、高橋さんは、実家の寺を継ぐために宗派の専門道場に入り、約2年の修行の後、実家のお寺で仕事をすることになります。
修行時代は普通の寺の住職になるのだから厳しい修行は必要ないと割り切り、実家のお寺での仕事もルーチンワークだけ。日々、怠惰な生活を過ごしていた高橋さんですが、人の死で生活していることにコンプレックスを持っており、級友に言われた言葉が呪縛となっていたそうです。
でも、そのような生活も30歳の時に変わります。
戦死者の遺骨
1978年8月に高橋さんは、ニューギニアのビアク島モクメル洞窟に慰霊行に行きました。
その洞窟は、第2次大戦で、多くの日本兵が米兵によって一瞬で焼き殺されたところでした。高橋さんは、読経しながら中に入っていきましたが、自分が歩く泥水の下に日本兵の遺骨が無数に沈んでいることに気づきませんでした。
高橋さんに同行した女性は、ここで夫を亡くしており、泥水を転げまわりながら号泣していたそうです。
この時の体験が、高橋さんの意識を変えます。これまでは、葬儀の際に死化粧された死者しか見ることはなく、本人の痛み、苦しみ、みじめさ、寂しさ、恐怖などの感情を知ろうとも思っていませんでした。
ビアク島での体験は、高橋さんの怠惰な生活を変えます。「苦」の現場に身体をねじ込み、「苦」を真正面から見ることで、僧侶が何をする人なのか、いのちとのかかわりをどうとるかが必ずわかってくると気付いたのです。
それからの高橋さんは、チェルノブイリの原発事故で苦しむ人々、タイのホスピスでHIVの感染者と接することで、人々の「苦」と向き合うようになりました。また、タイでは、開発僧(かいほつそう)と呼ばれる人々が、仏教の戒律の一部を放棄して、荒廃する社会環境を自分自身の課題として解決しようとしている姿を見、僧侶に何ができるかを問うようになります。
寺に人を集める
高橋さんは、仏教の教えを広めるために寺に人を集めることを始めました。
伝統仏教では、世俗と関わることは、本来の寺の仕事ではないと考えます。そして、庭掃除、トイレ掃除、毎朝の読経や宗教行事などを密かに行う陰徳を重んじます。
寺に多くの人を集める高橋さんのやり方は、陰徳とは真逆の行為であり、仏教界から批判されることがありました。しかし、いのちの大切さを多くの人に説くためには、庭掃除やトイレ掃除をしていてもできません。高橋さんは、著名人をお寺に呼びイベントを開催して、多くの人に仏教の教えを知ってもらおうとしていたのです。
常に門を閉じているお寺には、人は誰も来ません。門を開け、風通しを良くしておくことが人の出入りを増やします。どんなに素晴らしい教えでも、誰にも説くことがなければ意味がありません。
いのちの定義
「いのち」とは一体何のか?
かつては、宗教が、いのちの領域に深く関わっていましたが、科学の進歩により宗教といのちの関わりが薄まりつつあります。
生物の体が無数の細胞でできていること、DNAが遺伝情報を持っていること、遺伝子組換作物やiPS細胞の発見など、科学で生命とはどういうものなのかが明らかにされていくにつれて、人々の持つ「いのち」の価値観は、宗教から科学技術に依存する割合が高まってきています。
生命や死に対する価値観が変わりつつある中で、お坊さんが、葬儀の際にお経を上げるだけでは、現代人はその意義を理解することはできません。
「葬儀になぜお坊さんを呼ばなければならないのか」、「お坊さんがいなくても死者を葬ることはできる」と考える人々が、宗教を介さない直葬と呼ばれる葬儀を行うのは当たり前です。生前に何のかかわりもなかったお坊さんが、葬儀でお経を上げることに何の意味があるでしょうか?
日頃は門を閉ざし、葬儀がある時だけ人と関わるだけでは、仏教の教えは広まりにくいでしょう。