ウェブ1丁目図書館

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葬式に金をかけるのは執着だろうに

日本消費者協会が2017年に行った「第11回『葬儀についてのアンケート調査』報告書」によれば、葬儀費用の平均は約196万円でした。10年前の「第8回『葬儀についてのアンケート調査』報告書」では、葬儀費用の平均が231万円でしたから、徐々に葬式にかけるお金が減少していることがわかります。

僕は、この傾向は良いことだと思いますが、まだ桁が2つ多いように感じますね。

告別式の始まり

ところで、現代のような葬式は、いつごろから始まったのでしょうか。

宗教学者島田裕巳さんの著書「葬式はいらない」によると、現代の告別式の始まりは明治時代からとのこと。

自由民権運動家の中江兆民は、「おれには葬式など不要だ。死んだらすぐに火葬場に送って荼毘にしろ」と遺言を残したのですが、板垣退助や大石正巳たちが宗教色を排除した告別式を開きました。これが告別式の始まりとされています。故人の遺志とは関係なく葬式が行われるのは、現代でもよくあることです。

もしも、板垣退助たちが、中江兆民の遺言を守っていれば、今日のように200万円もの費用をかけた大々的な葬式は行われていなかったかもしれません。

仏教はいつから葬式に関わったのか

葬式と聞くと、多くの人が、お坊さんがお経をあげ、故人の死を悼む人たちが焼香をする場面を思い浮かべると思います。

中江兆民の告別式では宗教色が排除されていたのに現代の告別式では、仏教色が非常に強くなっているのはどうしてなのでしょうか。そもそも、仏教がいつから葬式と関わるようになったのでしょうか。

インドで仏教が誕生した時には、仏教は人の死と結びつけられてはいませんでした。日本に伝来した頃も、仏教が葬式に関わることはなく、天皇陵を調査しても、人の死と仏教を結びつけるようなものは見当たらないのだとか。

奈良時代に入っても仏教は葬式とは縁がなく、現代も奈良仏教の寺院は葬儀を行っていません。

仏教が人の死と関わるようになったのは、平安時代浄土教信仰が広まってからです。藤原頼通平等院を建立したのも浄土教信仰によるものです。しかし、浄土教は一部の特権階級だけが信仰しており、庶民とは無縁でした。

仏教が人の死と深くかかわるようになったのは、鎌倉時代に浄土宗や浄土真宗が広まってからです。南無阿弥陀仏と唱えれば極楽往生できるという教えは、厳しい修行をしなくても救われることから、庶民の間に急速に広まっていきました。でも、この頃も、まだ仏教は葬式と関係がありませんでした。

仏教を葬式と関わらせたのは、禅宗の一種である曹洞宗でした。その第4祖である瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)は、密教の加持祈祷や祭礼を取りいれ、経済基盤を確立していきました。

曹洞宗では、悟りを開いた僧侶には尊宿葬儀法、修行の途中で亡くなった僧侶には亡僧葬儀法という2つの作法で葬儀が行われます。在家の信者の葬式は、亡くなった信者をいったん出家させ、亡僧葬儀法で葬式を行いました。また、出家者の証として戒名も授けられました。

自力本願の禅宗が、仏教と葬儀を結びつけたのは意外に思いますね。

時代は下り江戸時代になると、幕府はキリシタン排除を目的に全ての日本人を強制的に仏教の各寺院の檀家にしました。これを寺請制度といいます。檀那寺は、宗門人別帳を用意し現代の戸籍管理のような仕事をしていました。一方、檀家は、その証として戒名を授かる義務が課されました。

そもそも、仏教には戒名は存在しなかったのですが、寺請制度によって慣習となり、戒名に応じたランク分けがなされて身分秩序が維持されていったのです。

戒名はいらない

仏教には、もともと戒名は存在しませんでした。

しかし、出家した人は、お坊さんとしての名に変更する必要があり、この時授けられるのが戒名でした。したがって、出家せずに亡くなった人には戒名は不要なのです。ところが、仏式で葬儀を行うと、ほとんどの遺族が故人に戒名を授かります。

戒名は、長ければ長いほどお布施の額が上がります。さらに院殿号や院号の付いた戒名も、高額になります。島田さんによると、院殿号の相場は70万円以上、院号の相場は50万円から70万円で、最も安い戒名でも10万円から20万円だそうです。

戒名にはランク分けがなされており、かつては分相応の戒名を授かっていたのですが、高度経済成長期やバブル景気の時代に院号を授かる家が増え、戒名料もインフレ化していきました。バブル期にはなんと戒名料が平均70万円にも上がったとのこと。

島田さんの調査によると、明治時代の院号の戒名は18%だったのが、高度成長期には55%、平成に入ると66%まで戒名に院号がつくようになったそうです。

このように院号のついた戒名が急速に増えたのは、日本人が見栄や名誉、世間体を重視するからです。さらに高度成長期やバブル期の拝金主義が、戒名のインフレ化に拍車をかけたのでしょう。


戒名は、故人が生前にどのようなことをしていたかによって決められるそうです。そうすると、葬式の時だけお経をあげ、故人と面識のなかったお坊さんに戒名をつけることはできないはずです。それなら、生前に親しかった友人や知人が戒名を決めた方が良いのではないでしょうか。

出家もしていない、お坊さんと面識もない。

それなのに戒名を授かるのは変だと思います。

葬式をするのは寺院の経済的理由

江戸時代は、寺請制度で寺院の収入は維持されていました。また、広大な寺領を有している寺院は、その土地から上がる収入で維持管理費用を賄うことができました。

しかし、明治になると廃仏毀釈により、多くの寺院が打撃を受け、さらに2度の上知令によって寺領が没収され、寺院の存続が危うくなります。

そこで、寺院は生き残るために葬式で維持管理費用を得るようになり、贅沢な葬式が現代まで続くようになったのです。戒名料が高額になるのも、寺院の存続のためにはやむを得ないことだと言えます。

だからと言って、在家の人々が葬式に高額な費用をかける必要はありません。どの程度の葬式費用をかけるかは、遺族の自由です。葬式をするかしないかを決めるのも遺族の自由です。むしろ、葬式は、遺族が近しい人を亡くしたことのけじめをつけるために行うものであり、故人の友人や知人に亡くなったことを報せる行為なのですから、別の手段で代替できるのであれば葬式をする理由はありません。


仏教では、執着(しゅうじゃく)を捨てることが大事だと聞きます。執着は、こだわりといった意味合いで、人が苦悩するのは、こだわりや偏りがあるからであり、これらを取り除けば苦悩することはないのだと。

それなら、人は死ねば、ただの物だとする唯物論者こそ、執着を捨てた心の状態にあると言えます。

自分が死んでからも、墓参りをしろ、仏壇に手を合わせろ、先祖を敬えと子や孫に命じるのは、生への執着ではないのか。寺院の維持存続のために贅沢な葬式をしたり、高額な戒名料をもらうことも執着ではないのか。


インターネット上のQ&Aサイトを見ると、葬式、法事、墓、仏壇に関する質問が非常に多いです。これらに関して親族ともめているといった悩みが、特に目につきます。

葬式も法事も、やりたい人がやれば良いのです。墓も仏壇も欲しい人が買えば良いのです。

でも、生前に墓を買うのはやめましょう。それを墓穴を掘ると言うのです。


自分の墓を買うことは、子や孫に墓守を強制することになります。

日本国憲法第20条では、1項で信教の自由、3項で政教分離が謳われています。これらは、有名なので知っている人が多いですが、日常生活で大事なのは同条2項だと思います。

何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

子や孫だからと言って、葬式、法事、墓参りへの参加を強制するのは憲法違反ではないですか?

死んでしまえば、その後のことは、自分で何も決定できないのです。

葬式をするかどうか、墓を作るかどうか、仏壇を買うかどうかは、自分以外の誰かが決めることです。自分の死後のことまで、子や孫に指図するのは執着以外の何物でもありません。

自分の葬式に金をかけろと言うのは、創業社長が生きているうちに会社の中に自分の銅像を建立するのと大差ないのです。