乃木希典(のぎまれすけ)は、明治時代の軍人。
戦前は、日本国内で知らない人はいなかったほどの人気者だったのですが、現在では知らない人の方が多いですね。また、乃木希典を知っている人でも、彼に対する評価は、日露戦争の旅順攻撃で多大な犠牲を出した愚将というものではないでしょうか?
確かに乃木将軍は、日露戦争で多くの犠牲者を出しましたが、その人間性に関して愚将と切って捨てるのは、違うような気がします。
自らを死地へと向かわせる行動
池波正太郎さんの「賊将」の中に収録されている「将軍」という短編小説では、乃木希典が主人公として描かれています。
その中に以下の描写があります。
「閣下ッ。あまり無茶をせんで下さいッ。困る、実に困るッ」
津野田は塹壕へ乃木を引っ張り込むと泣くように叫んで、足を踏み鳴らした。
乃木は微笑したようだったが、黙って、二0三高地を包む闇の中へ視線を向けた。
「明朝が最後の総攻撃だというのに、閣下の身に、もし万一のことがあったら、津野田はどうしたらよろしいのです。少しはお考えください」(385ページ)
乃木将軍は、日露戦争で多くの犠牲者を出したことに責任を感じ、自らを死地へと向かわせ、戦死しようとしたのです。
彼が請け負った旅順要塞の攻撃では、2人の息子が戦死しています。自分の子が戦死したのですから、普通なら泣き悲しむところですが、乃木将軍は、「よく戦死してくれた」と言いました。彼の心の中には、大勢の日本兵が戦死したのに自分の子だけが生きて帰ることに、日本国民に対して申し訳ないという思いがあったのです。
だから、我が子だけでなく、自分も責任をとって死ぬために、銃弾が降り注ぐ戦地へと足を進ませたのでしょう。
敵将からの香典
旅順要塞を守っていたのは、ステッセル。彼の開城の申し出を日本が受け入れたことで、半年に渡る旅順総攻撃は終焉しました。
敵将ステッセルに対して、敬意を払う乃木将軍。ステッセルは、それに無上の名誉を感じます。
「昨日は、使者をつかわされて、情け多い御慰問と贈物を頂き、私は、敗後の面目を得ました。また貴国皇帝陛下より、このような優遇を賜りましたことは私にとって無上の名誉でした」(400ページ)
乃木将軍は、明治天皇が崩御された時、その後を追うために妻とともに自害しています。
その時、ロシアの匿名の僧侶から香典が贈られてきました。
「それは、本当の僧侶じゃアありますまい。ステッセル将軍が、匿名で送ってよこされたに違いありません」
敗戦の将軍ステッセルは、戦後の軍法会議で一時は死刑の宣告を受けたのだが-そのとき、これを伝え聞いた乃木が、丁度ヨーロッパに留学中の津野田に命じて、ヨーロッパの諸新聞に投稿させ、旅順戦の事実の闡明をはかり、ステッセルの減刑を熱烈に祈っていたものである。
ステッセルが其後、特赦によって出獄し、モスコー近郊の農村に住むようになったということを聞いたときの、乃木の満足そうな、そして安心と喜びに満ちた溜息を、津野田は忘れえない。(406ページ)
日露戦争で多くの犠牲者を出した乃木将軍でしたが、戦前まで絶大な人気があったのは、敵将を労わる彼の優しさが理由だったのかもしれませんね。