時代劇や歴史小説で描かれる織田信長は、短気で怒りっぽく、新しいものに興味を持ち、古いものは壊していく、革新的な面と破壊的な面を持つ人物です。
また、数々の逸話も作中で採り上げられることが多く、中には本当なのかと疑ってしまうものもあります。
これら信長の人物像や逸話は、原作者や脚本家の創作の部分はありますが、概ね正しかったのではないかと思います。ただ、誇張されていたり、後世の人が決めつけた部分もあるでしょうけど。
信長公記は一次資料に準じた扱い
現代の織田信長の人物像は、彼に仕えた太田牛一が著した「信長公記」によるところが大きいです。
太田牛一は、「おおたうしかつ」や「おおたぎゅういち」などと呼ばれていますが、良質な資料でどちらが正しいかは確認できていない状況です。それはさておき、牛一は、織田信長に仕えていたので、彼が著した信長公記は高い評価を受けています。
戦国史研究家の和田裕弘さんは、著書の「信長公記-戦国覇者の一級資料」の中で、「過度な信頼は禁物だが、いわゆる一次資料に準ずる評価が与えられており、他の軍記物とは一線を画した信頼性の高さがある」と述べています。また、和田さんは、牛一を「メモ魔」とも評しており、信長公記の信頼性を高める要因になっているとも述べています。
牛一の信長公記は、自筆本や写本も含めて数多くの伝本が伝わっており、70本以上が確認されているとのこと。織田信長についての記録は、豊臣秀吉の生涯を記した太閤記の著者である小瀬甫庵の信長記もありますが、牛一の信長公記と比較すると信頼性は低くなっています。
さて、信長公記は、信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄11年(1568年)から天正10年(1582年)の本能寺の変までの15年間を1年1冊ずつにまとめた本編と上洛以前のことを記した首巻からなります。
信長が世間に知られるようになったのは上洛後ですから、以後の信長の行動は他の記録から信長公記と照合が可能です。しかし、上洛前の信長の記録は信長公記に頼らざるを得ないので、内容が怪しいのではないかと疑ってしまいます。
しかし、牛一は、奥書でその内容に嘘偽りはないと宣言しているので、そこは信じたいところです。
濃姫
織田信長の正室は、美濃の斎藤道三の息女・濃姫とされています。
濃姫は、織田と斎藤との和平のために信長に嫁がされました。いわゆる政略結婚です。
信長公記でも、斎藤道三の娘が信長に嫁いだと記録されていますが、その名は不明です。美濃から来た姫ということで濃姫と通称されていますが、他に帰蝶や鷺山殿とも呼ばれています。一級資料による確認はできていないようです。
その濃姫は、時代劇だと、信長を支える良き妻として描かれることが多く、秀吉とねねの縁組を手助けする場面もよく目にします。そして、最期は、本能寺で信長とともに自害して果てます。
しかし、信長公記では、結婚以後の濃姫のことがよくわかりません。他の記録でも、永禄12年と天正2年に登場する程度のようです。没年は、慶長17年(1612年)という説もあるのだとか。
比叡山と大坂本願寺
織田信長は、多くの戦国大名と戦いましたが、宗教団体とも戦っていました。それゆえ、信長は宗教を弾圧したと考えられていますし、古いしきたりを排除した創造主とも言われることがあります。
元亀2年(1571年)の比叡山の焼き討ちでは、無抵抗な女性や子供も殺害したことから、信長を鬼と評価する人もいます。
しかし、信長公記を読むと、どうも比叡山側に焼き討ちされる原因があったのではないかと思います。
織田と戦っていた浅井・朝倉の連合軍は、信長の参陣を見て怖気づき、比叡山に逃げ上がりました。そこで信長は比叡山に対し、織田に味方すれば領国にある山門領は返すことを約束します。ただ、出家の身であることから、どちらか一方に味方することはできないだろうから、せめて中立を保ってくれれば良いとも比叡山側に伝えています。
そして、これらを守れないのであれば焼き討ちすると警告しました。
もしも、比叡山が信長の言うことに従っていれば焼き討ちされなかったはずです。女性や子供たちも殺害されることはなかったでしょう。
還俗する前、太田牛一は天台宗の僧でしたが、その牛一ですら「天下の嘲弄をも恥じず、天道の恐れをも顧みず、淫乱、魚鳥服用せしめ、金銀賄いに耽って」と比叡山の堕落ぶりを記しています。
11年に渡る大坂本願寺との戦いも、信長に苦しめられた農民たちが蜂起した一向一揆と思われることが多いです。しかし、織田と大坂本願寺との幾度かの戦いは、常に大坂本願寺側から仕掛けられています。
信長が永禄10年に美濃を平定した際、本願寺の顕如は信長に祝意を表していました。もともと両者は友好関係にあったのですが、突如、浅井・朝倉、三好と連携して信長と対立するようになりました。
その後の戦いも、大坂本願寺側が織田に宣戦布告し、戦いは長期化していきます。
一向一揆と聞くと、竹やりを持って突進する程度の戦いしかできなかったと考えられがちです。しかし、大坂本願寺の1万5千の軍勢が、信長の家臣の原田直政に弓・鉄砲数千梃を放ちかける大戦を仕掛けてきたのですから、民衆の蜂起や宗教団体が権力者の弾圧と戦ったといったものではありません。大坂本願寺は、明らかに軍隊だったのです。
当時は、比叡山にしろ、大坂本願寺にしろ、聖職者の集団とは言えなかったのですが、仏教と関わりがあったので、現代では、織田信長は宗教を弾圧した権力者と勘違いされているように思います。
本能寺の変での信長
明智光秀の軍勢が本能寺を取り囲んだのを知った信長は、「是非に及ばず」と発したのですが、その場にいなかった太田牛一は、なぜ信長が「是非に及ばず」と口にしたことを知っているのでしょうか?
牛一が脚色したんだと思う人もいるかもしれませんが、そのようなことはありません。先にも述べた通り、牛一は、信長公記に嘘偽りはないと述べていますから、本能寺の変の信長の記述も事実のはずです。
では、いったい、牛一は、どうやって本能寺の変の様子を知ることができたのでしょうか?
それは、信長が、もはやこれまでと思った時に付き従っていた女房衆を本能寺から脱出させたからです。牛一は、女房衆たちに後日取材をして、信長の最後を信長公記に記したんですね。
和田さんの「信長公記-戦国覇者の一級資料」は、太田牛一の信長公記の全てに触れているわけではありませんが、織田信長の生涯を手短に知るのに適した書籍です。
時代劇や歴史小説に登場する織田信長と信長公記に記されている織田信長を比較しながら読むと、作中のどこに脚色があったのかを確かめることができ、自分の中の信長像を修正できますよ。
- 作者:和田 裕弘
- 発売日: 2018/08/17
- メディア: 新書