平等な社会。それは、誰もが理想とする世の中です。
しかし、平等と一口に言っても、人によって捉え方が違います。全員の給料が同額であることが平等だと思う人もいれば、機会の均等が保障されていれば結果が異なってもそれは平等だと考える人もいます。
人によって平等の捉え方が異なっていると、いったい何が真の平等なのかわからなくなります。
インドの精神
作家の五木寛之さんが、世界を旅した時の内容を紹介している「世界漂流」という書籍の中に「インドの闇を読む」という章があります。他の章は、五木さんが実際に訪れた世界の国々のことが書かれているのですが、この章だけは実際にインドに行かずに書かれています。
インドのイメージ。
カレーを思い浮かべる人もいれば、ヨガを思い浮かべる人もいるでしょう。欧米諸国のように物質文明が発達した国とは、どこか違う印象があります。精神面を重んじる文化というのでしょうか。
五木さんは、ご自身が読んだインド関連の本について、「インドの思想や、インドの生活、あるいはインドの自然に学ばなければならない」という立場から書かれていると指摘しています。そして、インド関連の本を書かれている山際素男さんとの対談で以下のように述べています。
インドに学べということの背後に、ヨーロッパや日本では精神的な壁にぶつかってしまい、天然資源を掘るようにインドの精神的なエネルギーをくみとろうとしている、という面があるのではないか、という気がしないでもないからなんです。
オーバーに言えばこれまで欧米諸国や日本が天然資源を植民地からくみあげてきたように、今度は新しい精神的エネルギーの宝庫はないかと探したときに、インドという未開の地があった、と。そういうふうにとれなくもないでしょう。
(270ページ)
日本人は、物質的な豊かさを求め続けた果てに精神的疲労が蓄積しているのかもしれません。そして、精神的疲労から回復するために、これからはインドに学ぶべきだと。
これに対して山際さんは、インドの現実をこう語っています。
インドへ行くと「自由」「平等」という自明のこと、既得の権利というものが崩れ去ってしまうんですよ。で、何をもってしてこの人たちは真理とするのか、愛とするのか、人間性とするのか、と考えてしまうわけです。真理や愛や人間性ということを、平等という考え方なしにどうやって語り合うのだろう、と思うんです。そこでひとつの壁にぶつかってしまう。それがカースト制・イコール・ヒンズーイズムの世界なのだろうか、と。
(271ページ)
カースト制のような階級制度は、平等とは真逆の仕組みです。
物質的豊かさを求め、弱肉強食の資本主義社会で競争を繰り広げていると、貧富の差が出てくることがあります。それに嫌気がさした人が、精神の浄化を求めてインドに行くと、そこには努力によってひっくりかえせないカースト制が立ちはだかった社会がある。
旅行前にインドに求めていたものと、どこか違う。
不平等の容認
山際さんによると、あのガンジーもカーストをなくしてはいけないと言っていたそうです。
カーストを残すことは不平等を容認していることにならないでしょうか。
彼はカースト制の擁護者でもありつづけた。となると、カースト制擁護は単に政治的なスローガンだった、ということではすまなくなってくるでしょう。彼の考え方の根底にも、不平等ということがあったと考えざるを得ないんですよ。
ガンジーは、現に不平等なのに、そんなものはなくさなければならない、人間というのは平等だと言いつづける虚構よりも、矛盾を矛盾としてはっきり見ようとしたんじゃないかという気がします。ぼくは、人間は平等であるなどという虚構の偽善性よりも、このガンジーの偽善性のほうがもしかしたら罪が軽いのかもしれない、と思うことがあります。
(273ページ)
さらに山際さんは、ガンジーの考える不平等にそって社会が進んでいく限り、崖っぷちに立つことはないとも述べています。ガンジーの思想の中にある不平等さを認めること、それは人類救済の道だと。ガンジーの中の矛盾を排除すれば、大量殺戮への道に向かうんじゃないかと山際さんは指摘しています。
社会の中にある不平等を隠し、平等を声高に叫んでいることの矛盾。それを排除しようとすると、大量殺戮に向かう危険があるのでしょう。
給与支給額をシャッフルしてみる
共産主義社会では、誰もが給料が同じです。まじめに仕事をしている人も、サボっている人も、もらえる給料は同じです。
それなら、できるだけ手を抜いて仕事をした方が得だと考える人が出てきます。ここに共産主義の限界があります。
一方の資本主義は、結果を出せば多くの見返りを得られます。しかし、どんなに努力しても結果が出なければ、わずかな収入しか得られません。場合によっては損失を全て自分が負担しなければならないことだってあります。資本主義社会では貧富の差が生まれると批判されるのは、これが理由でしょう。
それなら、給料をシャッフル制にするのはどうでしょうか?
あなたが毎月もらう給料は、あなた自身が働いて稼いだ給料ではなく、日本国内の誰かが働いて稼いだ給料になるのです。もしかしたら、ある月は、年俸数億円のプロ野球選手の1ヶ月分の報酬が、あなたの銀行口座に振り込まれるかもしれません。上場会社の社長の銀行口座には、高校生がコンビニで働いたバイト代が振り込まれることもあります。
しかし、個々人がもらう給料は自分の仕事に対する見返りとは異なっていても、日本国内全体で支払われる給料の合計は今までと同じです。ただ、自分が働いて稼いだ給料は自分以外の誰かに振り込まれ、自分がもらう給料は国内の誰かが働いて稼いだ給料だというだけです。
これを平等と見るか不平等と見るかは、人それぞれ。
五木さんは、ワルシャワに旅行に行った時、競馬をしたそうです。
ワルシャワ競馬でおもしろかったのは、競馬ファン気質は洋の東西をとわず、全世界どこでも似たようなものだということを痛感させられたことだった。
スタンドでゴール直前になると、ポーランドのおっさん達が、拳をつき出し、口々に大声で叫ぶ。
「あれは何と言ってるのかね」
と、きくと、Kさん、にやりと笑って、
「そのままの状態で!と、叫んでいるようです」
なんのことはない、府中や中山や大井で日本人のおっさんが絶叫する、
「ソノママ!ソノママ!」
という声とまったく一緒ではないか。
(131~132ページ)
世界中どこに行っても、人間の思考回路は平等にできていることがわかりました。
- 作者:五木 寛之
- 発売日: 1995/03/17
- メディア: 文庫