ウェブ1丁目図書館

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現代日本人の排他的な性格は神話の時代から続くもの

日本人は、排他的であるとの指摘を受けることがあります。

最近は、海外から多くの旅行者が日本を訪れるようになりましたから、日本人が外国人と接する機会が増えており、以前よりも懐が深くなってきてはいます。それでも、排他的、閉鎖的といった根本的な性格は残っており、すぐには変わることはないでしょう。

ところで、日本人は、いつからこのような性格を持つようになったのでしょうか。

坂上田村麻呂蝦夷征伐は農業普及が目的

日本人の排他的な性格は、平安時代初期には確立されていたようです。

考古学者で歴史作家の樋口清之さんの著書「うめぼし博士の逆・日本史 4巻」では、坂上田村麻呂蝦夷征伐は農業の普及が目的であり、大和の人々と異なる風貌や風俗を持った人々を排除したと述べられています。

農業の普及、すなわち稲作の普及は、大和の人々の価値観を東北の人々に押し付けるものでした。日本全国から広く税を徴収しようと思えば、稲作を全国に普及させた方が良いと考えるのは当然のことです。そして、坂上田村麻呂を東北に遠征させ、現地の人々に稲作を指導させたわけです。

坂上田村麻呂は、東北で水田の開拓に成功し、収穫を上げるようになった200人の東北の人々を連れて京都に凱旋しました。

きっと朝廷から褒賞が出るだろうと期待した田村麻呂でしたが、連れてきた東北の人々は彼の目の前で全員処刑されてしまいます。東北の人々の風俗や風貌が大和の人々と異なるという、ただそれだけの理由で。

朝廷は、稲作に従事するようになっただけでは同族化したとはみなさなかったのです。

ヤマトタケルによる農耕文化の普及

自分たちと異なっている者は排除するという平安時代初期の朝廷の態度は、神話の時代に確立されていたようです。

古事記日本書紀に登場するヤマトタケルは、西に東に大和政権に反抗する人々を服従させていきました。

ヤマトタケルは、父の景行天皇から粗野な性格を疎んじられ、九州の熊襲(くまそ)征伐を言い渡されます。そして、ヤマトタケルは、熊襲を征伐し、その帰途に出雲国に立ち寄り、イズモタケルを騙し討ちにします。

大和に帰還したヤマトタケルは、景行天皇熊襲や出雲に農耕文化の根を下ろしたことを報告しました。しかし、景行天皇は、ヤマトタケルに休む間も与えず、東国征伐を命じます。

駿河国では、その辺りの土豪に騙され、野原で火攻めに遭いましたが、天叢雲(あめのむらくも)の剱を抜いて草をなぎ倒し、向火を焚いて難を逃れました。以来、天叢雲の剱は、草薙の剱と呼ばれるようになります。樋口さんは、この説話を焼畑農業の普及を意味するのだと解釈しています。

東国平定を終えたヤマトタケルは、伊吹山の「祀ろわぬ神霊」を討ち取りにいきます。神霊を討ち取ることで、その神を信仰する民を支配できるからです。しかし、武力のみで伊吹山の神霊に立ち向かったヤマトタケルは返り討ちにあい、伊勢の能煩野(のぼの)で力尽きました。

ヤマトタケルの話もまた、農耕文化の普及とともに地方の人々を大和に服従させようとしたものなのです。

農耕の普及に対する抵抗

大和政権が、全国に農耕を普及させようとしたとき、上で見たような数々の抵抗を受けました。

これまで狩猟採集で生計を立てていた人々にとって、農耕は収穫まで1年近い月日を要するため、そのメリットをすぐには理解できませんでした。米は、狩猟採集と比較すると、たくさん収穫できますが、農耕を知らない人々には信じられなかったのです。

だから、大和政権は、押し付けるような形で農耕文化を受け入れさせたわけです。これが、日本人が異なる文化を排除するようになっていった理由ではないかと。

歴史は過去の事実を調べるものとだけ解釈するのではなく、現代人にどのような影響を与えているのかまで考えることで、さらなる使い道がでてきます。

たしかに、歴史を「単に過去の事跡を調査する学問」とだけとらえれば、事実か否かの検証は最も重要な要件となるかもしれない。
しかし、歴史を、「過去の記憶が現在に大きな影響を与え、それに基づいて未来が決定される法則や仕組みを明らかにする学問」、つまり、歴史を生きた学問ととらえるなら、事実かどうかにかかわらず、過去の日本人がその「神話」や「伝説」に基づいて、現実にいかに対応したかの事実のほうが、はるかに大切になってくる。(122~123ページ)