ウェブ1丁目図書館

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応仁の乱後も続く南北朝時代

天皇家南朝北朝に分かれて争った南北朝時代は、室町幕府3代将軍の足利義満が明徳3年(1392年)に両朝を合一して終焉したとされています。

南朝後亀山天皇から北朝後小松天皇三種の神器が渡り、これで、一件落着かに思えました。しかし、両朝の争いは、その後も応仁の乱まで続き、なくなったはずの南朝後南朝として復活していました。

それどころか、応仁の乱後も後南朝は存続し、現代でも時折、その姿を見せる事件が起こることがあります。

室町幕府を開いた時から弱体化は始まっていた

考古学者で歴史作家の樋口清之さんの著書「うめぼし博士の逆・日本史 2巻」では、江戸時代から鎌倉時代まで、時代をさかのぼるように歴史の事件が解説されています。

樋口さんは、武士が貴族化すると政権が弱体化すると指摘しています。平家が滅びたのは貴族化したことが一因であり、室町幕府の弱体化もまた足利氏の貴族化の結果と考えられます。

足利義満の時代、室町幕府の権威は最高潮に達していました。明との勘合貿易、土倉・酒屋などへの課税、応永の乱での勝利は、将軍の権勢を高めるものであり、それをやってのけた足利義満室町幕府を最盛期に導きました。

しかし、義満が、花の御所を造営したり、北山山荘に金閣を建てたりと、足利氏を貴族化していったため、地方の武士は将軍を頼りないものと思うようになり始めます。将軍に庇護を求めるより、自らの力で土地を開墾し、私領を増やした方が賢明だと考えたのです。

守護、国人、神人は、地方で対立抗争を繰り返し勢力を伸ばしていきます。義満の時代は、地方を抑える力がありましたが、彼の死後、その力は衰え、やがて応仁の乱から戦国時代へと入っていき、将軍は見かけだけの存在に成り果ててしまいました。

室町幕府が弱体化したのは、義満が、京都で政治を行っていたからだと樋口さんは述べています。南北朝が合一した後は、鎌倉や足利に拠点を移し、地方を監視していれば、室町幕府が弱体化しなかったのだと。

しかし、義満が京都を離れなかったのは、南北朝が合一した後も、後南朝が生き続けていたからです。関東に拠点を移せば、再び南北朝の争いが起こりかねません。

足利尊氏が、関東ではなく京都に幕府を開いたのも、南朝の動きを封じるためでした。ところが、京都に幕府を開いたことで、武士の貴族化を招き、室町幕府は弱体化していったのです。

足利尊氏が利用した両統迭立

天皇家を二分した南北朝の争乱は、足利尊氏光明天皇を即位させて北朝を作ったことが原因で始まったとされています。

すでに後醍醐天皇がおり、その天皇に弓引くことは自ら朝敵になるようなもの。世論も足利尊氏に従わなくなります。そこで、思いついたのが、皇族の中から新たに天皇に即位させることでした。この時、即位したのが光明天皇です。そして、光明天皇と対立する後醍醐天皇方を南朝と呼ぶようになりました。

足利尊氏は、北朝を擁立したことで、南朝と戦うことを正当化しました。よくも、このような奇策を考えたものだと思うかもしれませんが、北朝の擁立は奇策ではありません。

鎌倉時代、皇族は、大覚寺統持明院統に分かれており、両統から交代に即位する決まりとなっていました。大覚寺統の後は持明院統持明院統の後は大覚寺統といったように。このように交代に即位することを両統迭立(りょうとうてつりつ)といいます。

大覚寺統後醍醐天皇はいつまでも皇位を手放しませんでした。しかも、鎌倉幕府にも反抗していました。そのため、鎌倉幕府は、後醍醐天皇島流しにし、持明院統から光厳天皇を即位させます。ところが、鎌倉幕府後醍醐天皇の反撃に遭い滅亡。再び、大覚寺統が返り咲くことになりました。

足利尊氏が擁立した光明天皇持明院統です。つまり、足利尊氏は、両統迭立に則って光明天皇を即位させたのであり、奇策でも何でもなかったのです。しかし、光明天皇を即位させて一件落着とはいきません。南朝との争いは終わる気配がなく、足利尊氏光明天皇から征夷大将軍に任命され、京都に幕府を開き、南朝と戦い続けなければならなかったのです。

両統迭立の発端

ところで、両統迭立は、いつから行われていたのでしょうか。

それは、鎌倉時代後嵯峨天皇が原因でした。後嵯峨天皇は退位して上皇となり、皇子の後深草天皇が即位しました。ところが、後嵯峨上皇は、もう一人の皇子であった恒仁を愛していたので、13年後に後深草天皇を退位させ、恒仁を亀山天皇として即位させました。

こうなると、後深草側と亀山側で争いが起こります。そして、この争いを鎮めようと鎌倉幕府が、後深草持明院統と亀山の大覚寺統から交互に即位させる両統迭立を提案します。これを文保の和談といいます。

ところが、天皇親政を目論む後醍醐天皇は、鎌倉幕府が決めた掟に従おうとはせず、皇位持明院統に渡そうとしませんでした。足利尊氏北朝を擁立する以前から、南北朝争乱の火種はくすぶっていたんですね。

土地VS貨幣

皇族を二分した南北朝の争乱の遠因は、鎌倉時代両統迭立にありました。

しかし、それだけが南北朝の争乱の原因ではありません。

経済に視点を移すと、それは土地重視か貨幣重視かの争いでした。

後醍醐天皇は、これからは貨幣を中心に経済を回すという目標を持っていました。だから、鎌倉幕府を滅ぼした後、その功労者たちに無用となった大覚寺統が持つ土地を分け与えました。

ところが、世の中は、まだまだ土地を重視する価値観が強く、後醍醐天皇が貨幣を流通させようとしても、なかなか貨幣経済が根付きませんでした。やがて、人々は後醍醐天皇の政治に不満を抱くようになります。

そこで、足利尊氏が、再び武士中心の政治に改めるために後醍醐天皇とたもとを分かちます。足利尊氏は、北朝を擁立したことで、持明院統が持つ土地を自らに味方した者たちに分け与えられるようになります。貨幣より土地に価値を感じている者たちは、足利尊氏になびき、日本全国が「土地VS貨幣」の争いに巻き込まれていったのです。


南北朝の争乱は、応仁の乱後も続きました。

土地重視の室町幕府は、やがて貨幣重視の織田信長に滅ぼされます。信長の後を継いだ秀吉も貨幣重視でしたが、江戸幕府を開いた徳川家康が、再び土地重視に戻しました。

土地か貨幣か。

日本人の価値観は時代によって変わります。昭和から平成にかけてのバブル経済では、土地の価格が高騰し、貨幣よりも土地が重視されました。でも、バブルが崩壊すると、土地を手放し貨幣を持つ動きが加速しました。

これからも、土地を重視すべきか、貨幣を重視すべきかの争いは続いていきそうです。日本人の深層心理では、南北朝の争乱は終わっていないのでしょう。