ウェブ1丁目図書館

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平安時代から人間の心理は変わらない

芥川龍之介の作品には、王朝物と呼ばれる平安時代を題材にした歴史小説があります。それら王朝物を収録したのが、『羅生門・鼻』をです。

芥川龍之介の王朝物には、今昔物語や栄華物語など必ず出典があります。だから、『羅生門・鼻』を読んでいると、どこかで聞いたような話だなと感じます。でも、芥川龍之介の筆になると、読後の感想が、また違ったものになるので不思議です。

他人の悪事を見て自分を正当化する

羅生門は、荒廃した平安京の入り口にあった建物です。

地震、飢饉、火事などの災害が発生した京都では、多くの庶民が職を失い、餓死する者もいました。そして、羅生門の中には、多くの死体がごろごろとしています。

その羅生門に仕事をクビになった下人がやってきて、老婆と出会う話が「羅生門」です。

職を失った下人は、このままだと餓死するだけ。それなら、盗人にでもなった方がましだと考えます。でも、その勇気が湧いてきません。しかし、下人は、羅生門で老婆が死体から髪の毛をとっているのを見て盗人になる決心をしました。

この下人の決心は、他人がやっていることは自分もやっても良いと考える心境と似ています。自分一人だけでは悪いことをする勇気が出ないものですが、誰かと一緒なら悪いことをできてしまうもの。現代だと、SNSでの誹謗中傷と同じでしょうか。誰かがやっているのを見ると、自分もやっても良いのだと思い、つい悪口を書き込んでしまいます。

下人も、最初は老婆の行為に不快感を表していました。でも、老婆の言い訳を聞いているうちに心境が変わり、自分も老婆と同じ盗人になります。人は、自分の行為を正当化しようとします。そして、悪いことをしている人に対する行為は、天罰だと言わんばかりに自分の行為をより正当化しようとするのでしょう。

コンプレックスとのつきあい方

人には、背が低いとか太っているとか、何かしらのコンプレックスがあるものです。

「鼻」は、そのコンプレックスの話。

僧侶の禅智内供は、長い鼻がコンプレックスでした。どれくらい長いかと言えば、顎の下まで垂れ下がるほどの長さです。あまりの長さのため、鼻を気にするものの、人前では、何事もないように振る舞う内供。そんな内供の元に弟子の僧侶が鼻を小さくする方法を入手して帰ってきました。

そして、その方法を実践して内供は鼻を小さくしたのですが、以前よりも他人の目が気になるようになります。すれ違う人にくすくすと笑われているような変な感じです。

現代の整形手術もこんな感じでしょうか。コンプレックスに思っている箇所を理想通りに手術しても、なんとなくしっくりこない。そして、手術後は、それまでよりもやたら他人の目が気になる。

特に日本では、周囲の目を気にする風潮があるので、整形手術後は、他人の目が気になってしょうがなくなる人もいるかもしれません。すでに平安時代から、日本人は、他人の視線を気にする民族だったんですね。

何をもって運が良かったと言うのか

運が良かった、あるいは運が悪かったということがあります。

同じ不幸にあっても、これくらいの損害で済んだから運が良かったと思う人もいれば、ひどい目に遭ったと嘆く人もいます。

「運」は、そんな運を題材とした作品。

ある時、青侍が清水の観音様に運を授かろうと参詣する途中、翁に出会います。青侍は、その翁に観音様が本当に運を授けてくれるのかを訊ねました。そこで、翁は、ある女性が、観音様に一生安楽に暮らせるように願った話をし始めます。

その女性。

確かに望み通り安楽な暮らしができるようになったのですが、そこに行きつくまでに盗賊に監禁され、死の恐怖を味わっています。でも、その監禁がなければ彼女は安楽な暮らしを手に入れることはできませんでした。果たして、これは運が良いことなのでしょうか、それとも運が悪いことなのでしょうか。

結果良ければすべて良しと考える人は運が良い話だと思うでしょう。でも、そんな死の恐怖を味わう経験をするくらいなら安楽な暮らしを望まないという人もいるでしょう。

例えば、高層ビルから飛び降りて生きていれば1億円もらえると聞いて飛び降りる人が何人いるでしょうか。おそらく一人もいないはずです。事前に飛び降りても助かると伝えられていても、飛び降りようとする人は少ないでしょう。

観音様にお参りをすれば、死の恐怖を味わった後に望みが叶うと言われても困ります。


羅生門、鼻、運。

どの作品も人間の心理について興味深く描かれています。