現代の先進国では、食は文化的な活動の一部と言えます。テレビでは、グルメ番組が頻繁に放送されますし、SNSではきれいに盛られた料理の写真を見ない日はありません。
一方で、食は、人間が生きていくために欠かせない活動です。そして、人間が生きていくためには、他の生物の生命を奪わなければなりません。食とは、本来残忍な行為であり、文化的な活動とは程遠いものでした。
しかし、食を残忍な行為と考える現代人は多くありません。
人間らしさの根源は殺すヒト
東京大学名誉教授の臼井隆一郎さんの著書『パンとワインが巡り神話が巡る』は、食と神話の壮大な物語です。
サルと見分けがつかなかったヒトが、人間らしい生活を手に入れるようになったのは、動物を殺すようになってからです。「人間の文明は動物を狩り、殺害し、食べ続けた狩猟時代に大きく規定」されています。人間の歴史の95~99%は、狩猟採集時代です。農耕はつい最近始まったものであり、日本に伝わったのはかなり後ですから、日本人を農耕民族というのはまちがいです。人類の歴史の長さを基準にすれば、日本人は狩猟採集民です。それどころか、全世界の人類は狩猟採集民なのです。
約1万年前、新石器時代を迎えた人類は、農耕と牧畜を手に入れます。これにより、喰人的な「殺すヒト」から逃れることはできましたが、その本質からは逃れることができませんでした。
人類が動物を殺すために開発した武器は、大地を耕作する農具に変わりましたが、それは母なる大地を傷づける武器に他なりません。ヒトが持つ残忍さは、農耕や牧畜では変わらなかったのです。
共犯者としての意識を植え付ける儀式
犯罪者は負い目を感じながら生き続けなければなりません。しかし、共犯者がいれば、負い目を共有することで、その意識は幾分和らぎます。
罪の共有は、華やかなりし結婚式の場でも見られます。
ケーキカットは、新郎新婦の最初の共同作業ですが、それは、これから共犯者になることを誓いあう儀式としての性格を持っています。2つに切り分けられるケーキは、本来、牛や羊であり、ナイフは動物を狩る斧です。結婚式とは、夫婦で動物を殺し、共犯者として生きていく誓いの場だったのです。
お金を出せば、簡単に食べ物が手に入る現代とは違い、昔は綺麗事だけで生きていくことはできませんでした。ヒトが生きるとは、他の動物の生命を奪うことであり、その罪を共有するために結婚式があったのです。
定住生活とワイン
遊牧民が定住生活をするようになった理由としては、農耕が考えられます。
しかし、臼井さんは、ワインが定住をもたらしたとの説を唱えており斬新です。
ワインの味を覚えると、目が座り、長っ尻になり、動くのが億劫になります。現代人が、居酒屋で酔っ払ったら家に帰りたくなる心境と同じです。
心地良くワインを飲むためには、自前でワインを用意しなければなりません。そのためには、葡萄畑が必要です。それだけではなく、葡萄を絞る圧搾機も必要です。その結果、遊牧民は定住を選択するようになったのです。大洪水の後、ノアが真っ先につくったのはワインのための葡萄畑でした。
穀物栽培の必要性ではなくアルコールの欲求が、人類を定住させたというのは興味深い話です。
人口問題と食糧問題
人口が増加すると、必ず問題となるのが飢えです。いつの時代も、人口過剰が食糧問題を引き起こします。
この食糧問題を解決する妙案を思いついたのがゼウスでした。トロイア戦争を起こし、人口を減らすことで食糧問題を解決したのです。他の動物の生命を奪い生きてきた「殺すヒト」としての本性が、食糧問題を解決するカギとなるとは運命のいたずらとしか言えません。
人間にとって食は、生きていくために欠かせない他者の生命を奪う行為です。生物の生命を奪うことには、罪の感情がつきまといます。しかし、現代人は、そこまで深く考えることなく食を楽しんでいます。
現代人が食に対して罪の意識を持たないのは、イエスの死があったからなのかもしれません。
イエスは、自分がパンとして死に、ワインとして死に、子羊として死んでいきました。それにより、人類は、大量のパン、大量のワイン、大量の畜肉を約束されます。
共犯者が罪の意識から解放されるのは、罰を受け罪を償った時です。あるいは、誰かがすべての罪を被ってくれた時です。イエスが全人類の罪を被ってくれたから、現代人は食を楽しみ、グルメがもてはやされているのかもしれませんね。