お盆になれば、お墓参りに行く人もいるでしょう。
お寺あるいは霊園に行き、「〇〇家之墓」や「〇〇家先祖代々之墓」と刻まれた石塔の前に立ち、手を合わせるのが一般的なお墓参りの作法とされています。そして、お墓参りをするたびに「ご先祖様に感謝しなければならない」と思うことでしょう。
しかし、我々が普段目にするお墓の歴史は浅く、多くの場合、そこにご先祖様と呼べるほど時間的に遠い血縁者の遺骨が納まっていることはほとんどありません。
なぜなら、現在の家墓が普及したのは、1960年代から70年代にかけてなのですから。
石塔は個人単位だった
現在の家墓の石塔は、下の部分に遺骨を納める空間があります。このような形態の石塔をカロウト式石塔といいます。
民俗学・歴史学を専門とする岩田重則さんの著書「『お墓』の誕生」によれば、カロウト式石塔は、1960年代から70年代以降、行政が火葬施設を整備するとともに普及したそうです。そして、家墓の起源は江戸時代後期から幕末で、その数はわずかしかありませんでした。岩田さんが調査した家墓で、最も古い部類に入るものは、寛政4年の銘を持っていたとのことですから、1792年になります。
つまり、現在、墓地でよく見る「〇〇家之墓」や「〇〇家先祖代々之墓」と刻まれたカロウト式石塔は、ほんの50年ほど前に普及したものなので、そこに入っているのは、両親か祖父母、せいぜい曾祖父母までで、先祖代々のお墓と呼ぶには、あまりにも歴史が浅すぎるのです。
さて、家墓の歴史が浅いとわかったところで、1950年代以前のお墓はどのようなものだったのかが気になります。家墓が普及する以前の石塔には、「〇〇〇〇居士」や「〇〇〇〇大姉」と仏教式で個人の戒名が刻むのが普通でした。すなわち、かつては、お墓は個人単位のものだったのです。
お参りするのは石塔
現代日本人の感覚では、お墓参りとは、人の遺骨が埋まっている場所に手を合わせることでしょう。
しかし、遺骨が埋まっている場所で手を合わせる行為も、カロウト式石塔が普及してからです。
両墓制という言葉があります。遺体を埋める「埋め墓」とお参りをする「詣り墓」の2つのお墓が存在することから、両墓制というわけですね。両墓制は近畿地方でよく見られるもので、遺体の埋葬地にはお参りに行かず、詣り墓にお参りに行きます。そのため、両墓制の場合、お参りをする対象は石塔だったのです。
平清盛のお墓は、京都の六波羅蜜寺と祇王寺にありますし、その他の地域にも存在するでしょう。また、織田信長のお墓も、京都市内では大雲院、阿弥陀寺、総見院、本能寺と4ヶ所にあります。このように同一人物のお墓が複数存在しているのも両墓制と言えそうです。
両墓制に対して、同一人物のお墓が1つしかないものを単墓制といいます。単墓制では、遺体を土葬した場所に盛り上がった土饅頭が作られ、その上に何かしらの墓上施設が作られます。墓上施設は、山犬やオオカミにお墓を荒らされないようにするためなどの目的で作られるとされています。
単墓制では、土饅頭だけで石塔は作られないのかというと、そうではありません。土饅頭から少し離れた場所に石塔が置かれ、お墓参りをする際は、この石塔に手を合わせます。したがって、単墓制のお墓の場合も、お参りをするのは石塔であり、遺体埋葬地ではないのです。
また、単墓制の場合、石塔が建立されるのは遺体を埋葬するのと同時ではなく、早い場合で一周忌、三回忌や七回忌などの年忌供養に際してでした。したがって、石塔建立は、遺体の埋葬とは、時間的にも空間的にも隔たりがあったのです。
さらに無墓制もあります。これは、浄土真宗地域及び日本海側でよく見られるもので、火葬した後、遺骨は本山などに納骨し石塔の建立は行われません。
両墓制、単墓制、無墓制とお墓には3種類あるように述べてきましたが、岩田さんによれば、もともと3種類に分類されていたのではなく、なしくずし的にそのような用語が作られたに過ぎないとのこと。単墓制でも、経済的な理由などで石塔が作られないこともありましたから、そのような場合には無墓制となってしまいます。
お墓の形式はその時代の流行
日本のお墓は、石塔が建っていて当たり前と思われがちですが、日本の中世までは石塔非建立型のお墓が主流でした。
平安時代の京都では、遺体は、平安京の外の化野(あだしの)、鳥辺野(とりべの)、蓮台野(れんだいの)という場所に持っていき風葬されていましたから、そもそも土葬すらされていない状況でした。
石塔の建立がなされるようになったのは、近世からです。江戸幕府は寺檀制度により、国民を必ず仏教の寺の檀家とし、寺は戸籍管理を行っていました。現在の葬式仏教の始まりは、この寺檀制度からと言って良いでしょう。
寺檀制度は、江戸幕府にとっては政権をひっくり返す恐れのあるキリスト教を排除でき、寺としても葬式で檀家から布施を得られたので、政治的にも宗教的にも利点があったと考えられます。早い話が、お墓とは、その時代の流行の影響を受けて発展したものだったのです。
石塔の形も、1500年代は有像舟形が流行し、1600年代は板碑形や背光五輪塔が普及、1700年代から1800年代までは櫛形が流行り、現在は平頭角柱の石塔をよく見かけます。
遺体埋葬の手間が減っていくと仏教の介入度合いが増す
現在は、身内の誰かが亡くなれば、葬儀会社に連絡して、遺体の火葬や葬式の段取りなどをしてもらうのが一般的です。
でも、葬儀会社がなかった時代は、地域住民が協力して遺体を埋葬していました。その際、お坊さんが遺体の埋葬に関わることはありませんでした。仏教が関わるのは、その後の儀式的な部分だったようです。
ところが、火葬施設が整備され、葬儀会社が様々な手続きをしてくれるようになり、遺族の労力が軽減されると、人が亡くなって間もない時期から仏教が介入してくるようになりました。現代では、人の死と仏教による葬儀が一体になっているのは、当たり前の感覚になっていることでしょう。
いわば、現代の「お墓」とは、(中略)近世の政治支配の影響、近世以降の「葬式仏教」浸透の残影である石塔の拡大として存在している。そして逆に、この「葬式仏教」的要素が浸透せず、僧侶が関与しなかった、遺体を埋葬する部分、具体的には、葬式組が墓穴を掘り埋葬し墓上施設を設営する土葬の民族事象は、急速に解体しつつある。もともとからあった土葬、遺体埋葬が失われていくいっぽうで、後発的に普及した石塔だけは、「〇〇家先祖代々之墓」「〇〇家之墓」と刻まれた先祖代々墓へと発展しているわけである。自律的民族事象の解体とともに、ほんらいは非民族的事象としての近世の政治支配にもつならり生成してきた社会現象の拡大が、よりいっそう展開しているといってよいだろう。(122~123ページ)
カロウト式石塔を持つ家墓。
それは、政治、経済、宗教が三位一体で作り出したもので、そこに日本人の民族性といったものは存在しないと言えそうです。
「御先祖様に感謝しなさい」と、親が子に石塔の前で手を合わせるように指示することには違和感を感じます。
「『お墓』の誕生」は、これから墓を建てようと思っている人に読んでもらいたい本ですが、残念ながら絶版になっているようです。
カロウト式石塔を持つ家墓を買えば、その後の維持管理に手間がかかります。その手間は買った自分ではなく、子や孫、その後の世代が負担しなければなりません。石塔の下に骨壺が納めきれなくなったら、隣にもう一つ石塔を建立しなければならないでしょう。
石塔を建立できなければ、先祖の遺骨は、どこかに移さなければなりません。そうすると、お盆のお墓参りは1ヶ所では済まなくなります。
御先祖様だって、遺体埋葬地にお参りに行っていないのに現代人が御先祖様よりも労力をかけて、石塔にお参りをする必要があるのでしょうか。