しかし、クリスマスを祝ったり、正月に初詣に行ったり、節分の日に豆撒きをしたり、お盆に墓参りをしたりと、様々な宗教行事に参加する人が多いので、現代日本人が無宗教だとは言い切れません。神や仏を信じないと言っている人でも、これら行事に参加していることを考えると、多くの現代日本人が何かしらの宗教の影響を受けながら、日々、生活していることはまちがいありません。
ところで、日本人は、いつから宗教と関わるようになったのでしょうか。
神と仏の一体性
日本人が宗教と関わるようになったのが、いつからなのかは定かではないでしょう。文字を使うようになる前から宗教が日本人の社会に根付いていたのなら、日本人の宗教の起源を知ることは困難です。
仏教学と日本思想史を専門とする末木文美士さんの著書「日本宗教史」では、後の宗教史に最も影響を与えたのは古事記と日本書紀だと述べられています。ちなみに両方の文献を総称して記紀と呼ばれています。
記紀の成立時期は7世紀から8世紀で、それまでの歴史をまとめたものとされていますが、一方で多くの神話も載っています。記紀神話には、多くの神が登場します。その中でも、皇祖神としてアマテラスを強調していることから、天皇による統治の正統性を示したのが記紀だと考えられます。末木さんによれば、古事記の序の「偽りを削り、実を定める」という箇所は、天皇支配の目的のために改変、創作したことを意味しているそうです。
記紀神話には、多くの神が登場し、主要な神には個性があります。末木さんは、記紀の成立年代と仏教伝来の時期が近いことから、記紀神話は仏教の諸仏・菩薩の話を受容して形成されたのではないかと考えています。つまり、記紀に登場する神々は、仏教の影響を受けて個性を持たされたのではないかと。
ここに神と仏が一体化した神仏習合という考え方が生まれる基礎ができたのかもしれません。
神と仏の関係
神仏習合と言っても、そこには様々な形態が考えられます。末木さんは、神仏習合を以下の4つに分類しています。
- 神は迷える存在であり、仏の救済を必要とするという考え方。
- 神が仏教を守護するという考え方。
- 仏教の影響下に新しい神が考えられるようになる場合。
- 神は実は仏が衆生救済のために姿を変えて現れたものだという考え方。
「1」は、神は六道の中を輪廻する苦しみから脱していないので仏教による供養を必要とする考え方です。この考え方では、神社の傍らに神宮寺が建てられます。
「2」は、帝釈天や梵天のような神が仏教を守っているという考え方です。お寺の中に鎮守社が建っているのは、この考え方の影響があるのでしょう。
「3」は、平安時代の御霊信仰が典型例です。非業の死を遂げた者は怨霊となり、様々な災厄をもたらすと考えられました。その霊を鎮めるために神として祀ったのが御霊信仰です。
「4」は、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説です。仏を本来の姿である本地、神をホトケが仮に現れた姿である垂迹と捉えます。
これら4つの考え方をみると、神よりも仏の方が上の存在であるように思えます。朝廷が、国を支配することの正当性を国民に知らしめるために仏教を利用したのかもしれませんね。
政治は宗教を利用する
為政者が宗教の力を借りて、自らの権威を国民に示すことは日本だけでなく、その他の国の歴史にも見られます。むしろ、政治は宗教と一体となって、為政者が国を治めることの正当性を国民に認めさせたとも言えそうです。
日本では、鎌倉時代になって多くの新仏教が現れました。
鎌倉新仏教は、これまでの仏教のように政治家の支持ではなく、民衆の支持を集めたことが特徴的です。浄土宗も、浄土真宗も、日蓮宗も、簡単な方法で人は救われることを説いています。難しいことはわからなくても、とにかく仏様が救ってくれるんだということが庶民に広まり、やがて大教団へと発展していきます。
戦国時代には、多くの仏教徒が武器を持って戦っています。彼らもまた、政治に参加していたと言えるでしょう。
また、戦国時代は、キリスト教が日本に伝来した時代でもあります。これまでの神道と仏教の他にキリスト教も日本人の精神に影響を与えることになりました。しかし、キリスト教は、豊臣秀吉や徳川家康によって禁止され、江戸時代にはキリシタンを排除するための寺檀制度が作られました。
寺檀制度は、家単位で必ずどこかの寺院に檀家として登録する制度で、檀家がキリシタンでないことが証明されました。婚姻や旅行の際には、寺が発行する寺請証文を必要とする寺請制度も導入されます。さらに島原の乱後は、キリシタン禁制の強化から宗旨人別帳を宗門改役に提出する義務も負わされました。
このように江戸時代には、寺が市役所のような機能を持ち、住民の戸籍管理のような仕事を行っていました。寺には負担がかかりますが、その代わりとして檀家から布施を受ける権利を獲得しました。
寺檀制度や寺請制度は、江戸幕府に仏教が屈服した形ではありますが、江戸時代までに全国の人民を管理できるほどに仏教が発展していた証拠とも言えます。そして、江戸幕府も、人民を統治するために仏教の力を借りなければならなかった事情があったことがうかがえます。
神仏分離と国家神道
明治に入り、神仏分離令がだされました。
これまで仏の権威を借りていた神が自立し、政治の中に神道が組み込まれたのです。このような神道は国家神道と呼ばれており、神道は憲法の信教の自由の範囲外とされました。さらに国家神道は、天皇国家のイデオロギーとして機能し、国家により神話が収奪されます。
広義の国家神道はこのような国家の神話と祭祀の体系であり、非宗教化されて政治の領域の問題となる。(中略)また、非宗教性を表に立てるために、祭祀という面と同時に道徳論と密接に関連することも注目される。(187ページ)
日本史上、明治から敗戦までの時代は、思想的に最も国民が生きづらい時代だったのではないでしょうか。家父長制や家制度など、序列が決められた近代日本は、江戸時代以前よりも精神的に窮屈だったように思えます。
昭和に入ると、日本はさらに生きづらい社会になっていきます。宗教界も同じで、戦争協力を強いられるようになります。
戦後の日本国憲法で政教分離が定められたのは、国家神道の弊害からなのでしょう。
日本人は無宗教だと言っても、宗教の影響を受けながら生きています。日本国憲法では両性の合意で結婚できるとされていますが、結婚は家同士のつながりが重視されます。これは、明治以降の家制度の名残りですし、国家神道の影響を受けていると言えます。また、葬式にお坊さんを呼んだり、法事をするのも、江戸時代の寺檀制度の名残りです。
大多数の住民や国民が無宗教だと思っている社会は、実は、宗教が最も浸透した社会なのかもしれませんね。