歴史の通説を作るのは勝者。
敗者の言い分が通説に盛り込まれることは少なく、また、わき役たちが重要な役回りを演じても過小評価されている場合があります。歴史上の敗者やわき役の働きを正当に評価した史料もありますが、その内容が紹介される機会はあまりありません。
歴史のわき役たちの言い分を聞く機会があれば、おそらく、多くの現代人が自分の歴史観は違っていたのではないかと思うでしょう。
主役よりわき役が圧倒的に多い
どんな世界でも、主役は少数であり、わき役の方が圧倒的に多いです。しかし、スポットライトが当たるのは主役ばかり。これでは、歴史にわき役の重要な働きが埋もれてしまうのも無理はありません。
そんな「わき役」たちにスポットライトを当てたのが、作家の岳真也さんの著書「日本史『わき役』たちの言い分」です。同書では、源範頼、佐々木道誉、山中鹿之介、徳川秀忠、尾張宗春、中江兆民など、歴史上の名わき役たちが15人紹介されています。その名を一度は耳にしたことがある人物もいれば、かなり知名度の低い人物もいますね。
歴史上の事件をわき役たちの側から見ると、通説とされていることが実は違っているのではないかと考えさせられます。
筒井順慶は日和見主義者ではない
戦国時代も織田信長によって終わりを迎える時がきたかに思えた1582年(天正10年)6月2日。家臣の明智光秀の謀反により本能寺で織田信長は自害して果てました。
その後、羽柴秀吉こと後の豊臣秀吉が、中国の毛利攻めからすぐに上方に引き返し大山崎で明智光秀に勝利します。これにより、豊臣秀吉は天下人へと近づきました。
山崎の戦いでは、秀吉も光秀も多くの武将を味方に引き入れるための交渉を行っていました。当時、大和を領していた筒井順慶の元にも、両者から味方になってくれという使者がやってきていました。筒井順慶は使者に即答せず、戦場の山崎からほど近い洞ヶ峠(ほらがとうげ)に陣を敷き、戦局を見極めてから、秀吉か光秀か、どちらに味方するかを決めるつもりでした。
ところが、筒井順慶は戦局の見極めをしくじり、結局どちらにも味方することなく山崎の戦いは終了します。この時、筒井順慶がとった日和見主義の態度は、後に「洞ヶ峠」と呼ばれるようになります。
しかし、筒井順慶がどちらにも味方しなかったことには理由がありました。
織田信長がまだ生きていた頃、筒井順慶は大和で松永久秀と敵対していました。後に筒井順慶は織田信長に仕えて松永久秀を滅ぼすのですが、彼が織田の家臣になるために尽力したのが明智光秀だったのです。この時の恩を感じた筒井順慶は、山崎の戦いの時に明智光秀に味方すべきだと思います。しかし、光秀が討ち取った信長にも恩義を感じていた筒井順慶は、信長の敵討ちをしようとする豊臣秀吉にも味方すべきではないかと悩みます。
そして、筒井順慶が出した結論は、どちらにも味方しないというものでした。
では、なぜ筒井順慶は大山崎に近い洞ヶ峠に陣を敷いたのでしょうか?実は、筒井順慶は山崎の戦いの時、洞ヶ峠にはいませんでした。彼は、大和の郡山にいたのです。
順慶の青春は、松永久秀との戦いにのみ費やされたといっても、過言ではない。そしてそれはまた、生まれ故郷の大和を守る戦いでもあった。
”洞ヶ峠”の話。いや、郡山に立てこもった一件は、むろん、光秀方と秀吉(その背後には、亡き信長がいる)方との板ばさみになった挙句のことだろう。しかし、
「いまは大和を守ることだけに専念しよう」
そういう気持ちがはたらいていたことも、充分に考えられる。少なくとも、それが当時の彼の辛い心の支えになっていたように思う。
(198ページ)
筒井順慶は日和見主義者ではなかったのです。光秀にも信長にも恩義を感じていたからこそ、あえて山崎の戦いに参加せず成り行きを見守っていたのです。
徳川埋蔵金伝説を生んだ小栗忠順
幕末に勘定奉行として活躍した小栗忠順(おぐりただまさ)は、幕府軍が鳥羽伏見の戦いで新政府軍に敗れ最後の将軍徳川慶喜が謹慎を決意すると、上州の権田村に移転してひっそりと暮らすことにしました。
しかし、新政府軍に居場所を突き止められた小栗忠順は、東山道軍の隊長であった原保太郎に斬首されます。小栗忠順は、新政府軍との徹底抗戦を主張していたので、新政府から危険人物と目されたのが斬首の理由とされています。また、小栗忠順は江戸城を去る時、たくさんの荷物を運んでいたことから江戸城にあった大判小判を持ち出したとも言われていました。これが徳川埋蔵金伝説の始まりです。
小栗忠順は、江戸城から大判小判を持ち出していないので徳川埋蔵金を探しても出てくることはないでしょう。
新政府軍と徹底抗戦を主張した小栗忠順は、明治以降、悪人扱いされます。しかし、彼は1860年(万延元年)にアメリカに渡り日米間の貨幣交換比率を是正し日本にとって不利だった金の交換比率を対等の条件にするといった功績を残しているので、決して悪人ではありません。
他にも、小栗忠順は幕府の勘定奉行として様々な改革を断行し、明治日本に大きな貢献をします。
幕府の勘定奉行としても、忠順はさまざまな改革を断行した。
徹底した節約策を根幹とした財政再建。歩兵・騎兵・砲兵から成る様式の「三兵制度」の陸軍への導入。小石川大砲製造所や湯島鋳造所の建設。外国語専門学校の設立に新聞発行計画。書伝箱(郵便)・電信事業、ガス灯の設置、鉄道敷設の建議。
そして、わが国初のコンペニー(カンパニー)「兵庫商社」の設立など、いろいろあるが、一番の功績はやはり、「通説」にもある「横須賀製鉄所」の建設であろう。
(283~284ページ)
これらの改革は明治になってから行われたように思われがちですが、実は幕末、それも幕府の役人であった小栗忠順が手を付けたものだったのです。これほどの改革ができる逸材を東山道軍の一隊長の独断で処刑した行為は、今からでは計ることはできませんが、明治日本に大きな損害を与えたはずです。
日露戦争でバルチック艦隊との戦いを勝利に導いた東郷平八郎は、戦後、小栗忠順の娘クニ子にこう告げています。
「さきの海戦の勝利は、わたくしの手柄ではありません。お父上……小栗上野介忠順どののおかげなのです」
(中略)
「それにしても心ない輩の過ちにより、あれほどの人物の生命を奪ってしまうとは……わが国の大きな損失であり、惜しんでも惜しみきれません」
(286~287ページ)
歴史の通説は、その時の勝者や主役によって作られるものです。勝者や主役にとって都合の悪いことは歴史から消されてしまうこともあります。
歴史の事実を知るためには、敗者やわき役の言い分にも耳を傾ける必要があるでしょう。

- 作者:岳 真也
- 発売日: 2006/10/03
- メディア: 文庫