多くの人が、何気なく街中を歩いている時に石碑を見つけた経験を持っていると思います。でも、ほとんどの場合、石碑の前に立ち止まり、何が書かれているのか確認する人はいないでしょう。
そもそも古い石碑になると、常用漢字ではない難しい漢字が使用されていたり、漢文だったり、俳句や短歌だと草書ですらすらっと書いてあったりして読めないということもあります。きっと立派な人の事績やこの地で重大事件が起こったことを後世に残そうと石碑を建立したのでしょうが、碑文を読めないのでは興味を持ってもらうのは難しいですね。
題額は右横書きではなく縦書き
世の中には、そのような石碑に興味を持っている人がいるもので、京都市歴史資料館に勤務されている伊東宗裕さんもその一人です。著書の『京都石碑探偵』では、京都やその周辺にある石碑を探しに行った実体験や発見した石碑の内容が紹介されています。
石碑には、一番上にタイトルが書かれている部分があります。これを題額といいます。戦前に建立された石碑であれば、題額は、右横書きになっていることが多いです。例えば以下のような感じですね。
地之業創なては社会式株
株式会社はてなの創業の地に石碑を建てるとしたら、このような題額になるでしょう。一見すると、右横書きに思えるのですが、題額にこのように書かれている場合は、一行一字の縦書きとみなします。どう見ても右横書きだろうと思うのですが、一行一字の縦書きと考えられるのは、題額には、以下のように一行二字の縦書きのものがいくつも存在しているからです。
念場なは会株
碑記上て社式
一行二字の縦書きの題額があるのですから、右横書きに見える題額も縦書きと考えるべきだとするのが、伊東さんの見解です。確かにそうですね。古い石碑の場合、碑文も縦書きになっていますから、題額も縦書きとみなすのがすっきりします。こうやって考えると、戦前の人は、なぜ右横書きだったんだろうと不思議に思っていましたが、あれは、一行一字の縦書きだったのかもしれません。
ちなみに右横書きで2行の石碑もあるので、全てが縦書きということではなさそうです。最近できた石碑の場合は、左横書きで説明が書かれた碑文もありますから、時代とともに石碑の形態も変わっているようです。
石碑から石碑へ知識がつながっていく
伊東さんは、石碑探訪で楽しいのは、ひとつの石碑を調べることでさまざまな未知のことを知ることができることだと語っています。
歴史ある京都と言っても、近代に入ってから建立された石碑がほとんどです。そのためか、幕末から明治維新にかけての石碑を目にする機会が多いです。
東山の妙法院には、七卿落碑があります。題額には「七卿西竄記念碑」と刻まれているので、正式名称は、「しちきょうせいざんきねんひ」なのでしょう。
七卿落ちは、1863年に京都で起こったクーデターで、長州派の7人の公卿が御所から追放され、長州藩士とともに西に落ち延びた事件です。妙法院に石碑があるのは、ここで、七卿が今後の進退を相談し、長州に行くことを決断したからです。その翌年、長州藩は京都政界への返り咲きを狙って御所に攻撃を仕掛けますが、幕府軍によって鎮圧されました。これを禁門の変といいます。
禁門の変で敗れた長州藩士たちは、再び西に逃走。長州側として参戦していた久留米の神官真木和泉ら17人は、京都府乙訓郡大山崎町の天王山で自害し、その地には十七烈士を顕彰する石碑があります。また、同じく大山崎町では、敗走してきた長州藩士がスイカを食べた後に切腹しており、名がわからなかったことから、住民が無名氏墓を作り葬っています。
こうやって関連する石碑を見に現地を訪れているのが、石碑マニアの性なのでしょうね。他にも京都市北区の上善寺と上京区の相国寺に長州藩士の首塚があり、碑文はどちらも同じような内容となっていることから、建立者は違えど、同一人物が書いたものだと推測しています。まさにフィールドワークで出された結論ですね。
西川耕蔵って誰だ
禁門の変の1ヶ月前に新撰組が、京都に潜む長州系浪士を捕縛した池田屋事件が起こっています。
その池田屋事件で捕縛された者たちの中に西川耕蔵がいました。
誰それ?
全く知りません。完全な脇役です。捕縛された1年後に獄舎で死亡したとのこと。
この西川耕蔵が何者かを調べるために三井寺の観音堂に赴き、西川耕蔵招魂碑を見た伊東さん。この石碑に刻まれた建立者西川太治郎の名から、西川耕蔵のことが次々とわかっていきます。インターネットや図書館を駆使して、西川耕蔵がどのような人物であったのかを調べ上げていくのは、もはや趣味ではなく研究です。
情熱的に石碑探訪について語られた伊東さんの文章を読んでいると、自分もカメラを持って石碑を探しに行きたくなってきますね。