ウェブ1丁目図書館

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死者の蘇りを信じた人々によって生まれた一条戻橋と六道珍皇寺の言い伝え

人は死ぬとどうなるのかは、人類の永遠のテーマと言えます。

無になるのか、それとも別の人に生まれ変わるのか。考えても、その答えは出てきそうにありません。

また、死んだ人が生き返るといった伝説もあります。人は死んだら無になると信じたくない誰かが言い出したのかもしれませんが、死んだ人が生き返ったという話は世界中にあります。

使者が生き返る一条戻橋

京都には、死んだ人が生き返ると伝えられている一条戻橋(もどりばし)という橋があります。

作家の高野澄さんの著書『京都の謎 伝説編』に一条戻橋が紹介されています。

一条戻橋は、平安時代源頼光の四天王の一人である渡辺綱が鬼女と遭遇した地と言われています。渡辺綱は、髭切りの太刀で鬼女の片腕を斬り落としたと伝えられており、以後、髭切りの太刀は、鬼切りの太刀と呼ばれるようになりました。

一条戻橋の名がついたのは、その100年ほど前のことです。文章博士兼大学頭の三善清行が亡くなった時、その葬列が橋を渡っていると、熊野で修行中であった清行の子の浄蔵が駆けつけ、「あと1日早く戻って来られたら生きている父に会えたのに」と涙を流しました。

すると亡くなったはずの清行が生き返り、二人は抱き合って再会を喜んだと伝えられています。これが戻橋の由来だと。

その後は、処刑される者が、戻橋に花と餅を供え、処刑された後の蘇生を願う儀式が行われたともいい、「戻る」が縁起悪いとして結婚の行列が戻橋を渡らないともいわれるようになりました。

冥土まで響く六道珍皇寺の鐘の音

京都の東山には、六道の辻と呼ばれる地があります。

この辺りは、かつて鳥辺野という葬送地で、生と死の境目と言われていました。その六道の辻に建つ六道珍皇寺の境内には、迎え鐘と呼ばれる梵鐘があります。

迎え鐘は、お盆に先祖の霊を家に迎えるために撞かれる鐘です。死者の復活を期待させる鐘といえますね。

この六道珍皇寺の鐘を造ったのは、平安時代の慶俊というお坊さんです。鐘が出来上がった後、その披露式を行わなければなりませんでしたが、慶俊は、遣唐使として唐に渡らなければなりませんでした。そこで、3年間、鐘を土に埋めておき、自分が唐から帰って来た時に披露式をしようと考えます。

しかし、弟子たちは、なぜ3年も待たなければならないのかと疑問を抱き、2年目に鐘を掘り出し、撞いてしまいました。その音は、海を渡り唐の慶俊の耳にまで届いたそうです。この唐にまで届いた鐘の音が、やがて、冥土まで届く鐘の音といわれるようになりました。

この世と冥土を行き来した小野篁

六道珍皇寺の鐘の音が冥土まで届くとの言い伝えは、庶民たちの死んだ後も六道珍皇寺の鐘の音を聞きたいとの願いから生まれた伝説のようです。

そして、六道珍皇寺には、冥土を行き来した小野篁(おののたかむら)の伝説も残っています。

小野篁は、平安時代の役人で、3回も遣唐使として唐に渡ろうとした人物です。しかし、渡ろうとしただけで唐に行ったことはありません。

最初に遣唐使になった時は、嵐に遭って日本に引き返してきました。2回目も、暴風に遭って引き返してきます。3回目はどうだったかというと、正使の藤原常嗣と喧嘩し、仮病を使って帰ってきました。これを知った嵯峨上皇は、小野篁流罪としました。

1年で罪を許された小野篁は、京都に戻ってきます。遣唐使と合わせて4度目の帰還です。

何度も京都に戻ってくる小野篁は、やがて六道珍皇寺と結びつけられます。

冥土への入り口である六道珍皇寺。生き返ってきて欲しい人は、六道珍皇寺から戻ってくるはずだと信じた人々が、小野篁六道珍皇寺を結びつけるようになりました。そして、小野篁は、夜な夜な六道珍皇寺から冥土の閻魔大王に会いに行っていると噂されるようになります。

今でも、六道珍皇寺には、小野篁の像を安置する篁堂があり、中には閻魔大王の像も祀られています。遣唐使として唐に渡った慶俊が造った迎え鐘と唐に渡れず何度も京都に戻ってきた小野篁の像が、同じお寺の境内にあるのは興味深いですね。


一条戻橋の伝説や六道珍皇寺の伝説から、昔の人々が、死者の蘇りを期待していたことがわかります。死後のことが科学で解明されると、このような伝説は生まれなくなるのでしょうか。