ウェブ1丁目図書館

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教養がないことは恥ずかしいという雰囲気を作れば日本人は勉強する

日本には、周りと同じであることを良しとする文化があります。

可もなく不可もなく平均的であること。そうであるから気持ちが落ち着くということを日本人なら誰でも経験したことがあるのではないでしょうか?

この周りと同じであることを良しとする文化は、言い方を変えると恥の文化と言えます。周囲の人と自分が違っていたら恥ずかしい。だから、平均的であることを好むのです。

恥の文化に対しては否定的な見方があります。個性を重視すべきだというのがその典型です。でも、学ぶこと、勉強することに関しては恥の文化がある社会の方が、人々の教養が高まるのではないでしょうか?

恥ずかしいという気持ちを利用する教育

明治大学文学部教授の齋藤孝さんは、教師が生徒の勉強しようという気持ちを引き出す方法のひとつとして、「知らないと恥ずかしい」「できないと恥ずかしい」という気持ちをうまく利用する動機づけがあると著書の「教育力」の中で述べています。

西洋は罪の文化と言われており、神の意に反する行いは許されません。しかし、日本は多神教であるためか、唯一絶対の神は存在せず、西洋の罪の文化は根づいていません。その代り、日本人は、他人の視線を意識した上での自己コントロールを行い、自分の行いが他人から見ておかしなことであると判断した時には、その行いを慎みます。

私自身、絶対者としての神に罰せられるという罪の意識は感じることは少ない。たとえば道に紙くずを捨てるということができないのは、「そんなことをするのは恥ずかしい」という意識があるためだ。公共心がない行為を見ているだけで腹が立つ。だから自分がやるのは恥ずかしい、ということになる。
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この恥ずかしいという気持ちを教育者が上手く利用することで、児童や生徒の向学心を高めるのです。

教養がないということは恥ずかしいことなんだという雰囲気を教室の中に作ってしまえば、彼らは自然と学ぼう、勉強しようとし始めるはずです。

教養がなくても恥ずかしくなくなった1980年代

日本では、古くから「字が書ける」「本が読める」「知識がある」ということはすばらしいことだとされてきました。そして、読み書きができないこと、物事を知らないことは恥ずかしいということが、当たり前のこととして根づいたのです。

江戸時代には、特権階級の武士だけでなく町人や農民の子供も読み書きの知識を持とうと寺子屋に通い、開国後、外国人が日本人の識字率の高さに驚いたと言われています。町人や農民の中には、読み書きができなくても生活に困ることはなかった人もいたでしょう。でも、彼らが読み書きを学んだのは、恥の文化と関係があったのかもしれません。


しかし、この恥の文化も1980年代のバブル経済とともに失われ始め、教養がないことは別に恥ずかしくないことだという空気が蔓延しました。

そういう空気が蔓延している中では、教養がないと見られる人に対して、人格的には否定しないまでも、「ちょっとどうかしら」という肌寒い空気を送ってあげるといい。「エッ!知らないの?ごめん、ごめん」と、知らない人を目の前にして、それを語ってしまったときの気まずさみたいなものをこちらが示して、相手を気まずくさせるという技術、それをお互いにぜひやってほしいものだ。
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教養がないことを別に恥ずかしいことではないという社会の空気は、日本人の「学ぼう」「勉強しよう」という意欲を失わせてしまいます。最近では、若者の読書離れが問題視されています。これも、教養がないことは恥ずかしくないという空気が、彼らの本から何かを学ぼうという意欲を失わせているのかもしれません。

勉強すれば頭が良くなる

知人や友人に頭が良い人がいますよね。

頭の回転が速い、他人の気持ちをよく理解している、計画性がある等々、その定義はいろいろとありますが、どのような場合でも頭が良い人は、よく勉強をしているものです。

頭が良いのは生まれつきだとか、家庭環境だとか言う人もいるでしょうが、本人が勉強をしないかぎり頭がよくなることはあり得ません。これは、運動すると運動神経が良くなるというのと同じです。もちろん、運動神経が良い人の中には、体格が恵まれているということもあるでしょう。しかし、その恵まれた体格をスポーツに生かそうとするのなら、運動は避けて通ることができません。それと同じで、頭が良くなるためには勉強をしなければならないのです。


また、齋藤さんは、勉強することで自制心が養われているとも述べています。勉強の基本は他人の言うことに耳を傾けることです。自己中心的で独善的な性格では他人から学ぶことはできません。

先人たちの発見したことに対して耳を傾け、しっかりと聴くということが、学ぶということの基本だ。そうした学ぶ構えができている人は、ほかの人に対しての意識を持つこともできやすい。人の言葉を聴いている間は、自己中心的な態度をやめているということだからだ。
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例えば、読書の場合、どんなに批判的な態度で読もうとも、読んでいる間は著者の意見に耳を傾けています。自分の価値観や考え方と違っていたとしても、読んでいる間は、まず著者の考え方を理解しようとします。この「積極的に受動的な構え」が自制心を養わせるのです。

教育者は学び続けること

教師だけでなく、誰かに物事を教える立場にある教育者は、自らも学び続ける姿勢を持たなければなりません。自分が学ぼうとしないのに教え子が勉強するわけはありません。

優れた教育者は、教え上手であること以前に学び上手です。自分自身が学ぶことによって喜びを得たという経験がなければ、どんなに時間をかけて講義をしても教育の効果は出ないでしょう。

一年間授業をしたけれども相手は伸びなかった、という場合、これは教育をしていないということになる。逆に上手に生徒に本を読ませることができて、自分自身は教えなかったけれども、一年後に生徒が知識を身につけ、考える力を身につけていたということになると、これは教育が行われたということになる。教育力という場合、いわゆる教えるというイメージそのものではないということなのだ。
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権威を持った人は、しばしば学ばなくなることがあります。

そのような人の下で働く人々も、当然、学ばなくなるでしょう。そうすると、彼らが所属する組織全体が今も昔も同じ状態で変化することはありません。反対に学ぶことに喜びを感じている人で構成された組織であれば、常に業務の改善や新技術の開発が行われて発展していくでしょう。


学ぶ喜びを伝えること。

教育者が伝えるべきことはこれでしょうね。でも、勉強は喜びの前に苦痛を与えます。その苦痛を乗り越えさせるために教養がないことは恥ずかしいことなんだという雰囲気を作り出すことも、日本人で構成された組織では、有効な手段となるでしょう。