ウェブ1丁目図書館

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批判が習慣化すると虚報が生まれる

テレビのニュースや新聞で、たまに誤報があります。被害者の姓名を間違ったり、金額が誤っていたりするのが誤報です。

誰だって間違いは犯しますから、こういった誤報に目くじらを立てることはありません。しかし、時に誤報がマスコミの意思によって作り出されることがあります。こういった誤報は「うっかりミス」ではなく、事実に反する報道をすることが読者にとって有意義なんだという信念に基づいています。これは、もはや誤報ではなく虚報です。

南京事件に見る虚報

マスコミの虚報については、作家の井沢元彦さんの著書「虚報の構造 オオカミ少年の系譜」に興味深いことが述べられています。

戦時中に起こった南京事件は、日本軍が中国人を虐殺したひどい事件なわけですが、「南京大虐殺はデッチ上げ」だと発言した法務大臣が過去にいました。事件そのものがなかったと言うのは、さすがにどうかと思います。ただ、中国側が発表している犠牲者30万人とか40万人が正しい数字なのかは疑問が残ります。

この犠牲者の数に疑問があると言っただけで、批判する人がいます。そして、この批判こそが虚報が生まれる原因なのです。

ところが日本では、「中国側の発表数字は誇大過ぎるのではないか」という素朴な疑問を口にしただけで、「右翼」とか「軍国主義者」とか「日中友好の破壊者」と罵られるのである。
日本人は何か大きな勘違いをしているのではないか。それはこういう態度をとる人々は、真実を厳正に追究することが最も大切であるという、ジャーナリストの根本精神がわかっていない、としか思えないからだ。
(189~190ページ)

一方から提示された情報だけだと事実と違うかもしれないから自分で詳しく調べる。その結果、やっぱり犠牲者の数が多すぎることに気づいて、それを口にすると、歴史修正主義と批判される。

しかも、批判する人は自分では何も調べてなかったりするのですから、虚報をいつまでも正しいと信じ続けます。そういった人が多いと、社会も虚報を事実と受け入れるようになります。

犠牲を無駄にできない国民性

「第2次世界大戦は侵略戦争ではない」

たまにこういった発言を聞くことがあります。これに対して、井沢さんは、侵略かどうかを決めるのは被害者だと述べています。したがって、被害者である中国や朝鮮の人々から見ると、第2次世界大戦は日本が侵略した戦争となります。

しかし、侵略戦争だったと言われて、戦地で亡くなった方の遺族が納得するでしょうか?

いや、納得しないでしょう。国を守るために戦えと言われて戦地に連れて行かれた家族が、敗戦後に侵略のために戦地に向かったと言われるのですから。そして、これが国民性なのですが、日本人は過去の犠牲を無駄にしてはならないという思いが強く、時として、その思いが表に現れてしまうことがあるのです。

アメリカが、日本に対して中国から撤兵するよう最後通牒を突き付けた時、東条英機は中国からの撤兵は英霊に対して申し訳ないと言いました。それを日本の帝国主義的野望だと言ってしまえば、そうなのでしょうが、井沢さんは、ただそれだけではないと考えます。

もちろんそれが全くないとは言わないが、日本人の中には、「日本が日清戦争以来、中国の利権を獲得し、満州国を建設するために何人もの尊い犠牲が出ている。今、中国から撤兵してしまえば、その犠牲を全く無駄にするから、できない」という考え方が広くあったということは、これは明らかに認めざるを得ないと私は思う。
逆に言えば、日本人というものは、死者たちの犠牲の多さに常に引きずられる体質を持っているということだ。本来ならば、国が戦争をするべきか否かということは、勝てるか負けるかで判断する問題であって、そのためにだれかの死を無駄にしないというレベルで考える問題ではない。にもかかわらず、日本人はそう考えてしまうのである。それが実は最大の問題なのである。
(200~201ページ)

過去の犠牲は、将来の意思決定に影響を与えません。死者が生き返ることはないからです。

しかし、日本人は過去の犠牲を将来の意思決定に何の影響も与えない埋没原価と捉えることが苦手な国民性を有しています。だから、日清日露戦争での戦死者の数を思い出し、今ここで、中国から撤兵することは犠牲者に申し訳ないと考えてしまうのです。

この考え方が多くの日本人に根付いているから、「第2次世界大戦は侵略戦争ではなかった」とか「南京大虐殺はなかった」と、たびたび言う人が現れるのです。それは、戦死者の名誉を守りたいという気持ちなのでしょう。

犠牲者への哀悼の意

明治以降、戦争で亡くなった人の霊は靖国神社に祀られています。これも、戦争で犠牲になった人々の死を無駄にしないという国民性のあらわれと言えます。

そして、遺族の中には、総理大臣が靖国神社に参拝することを望む人もいます。自分の家族が他国を侵略した報いで死んだと言われるのは、非常に辛いことです。せめて、総理大臣には毎年靖国神社に参拝して欲しいという気持ちは理解できます。他方で、侵略された中国や朝鮮の人々にとっては、靖国神社への総理大臣の参拝者は、侵略戦争を正当化しているように思えるでしょう。

井沢さんは、アジアの人々に対しては侵略戦争だったと認め、英霊たちには一言、その旨を断わりわびる姿勢が必要だと述べています。

これは日本固有の宗教問題だから、いわゆる日本国憲法における政教分離とか、そういったことにはそもそもなじまないものなのである。そして、それを理解することが、日本民族を理解するということなのである。
もちろん、そういうことをすれば、中国や韓国は文句を言ってくるかもしれない。だが、それなら「『善悪』を問わずに死者を慰霊するのは日本の宗教的伝統だ」と説明し理解を求めればいいのだ。それは真実なのだから理解を得ることはできるはずである。
最もいけないのは、こうした伝統を全く無視し、決して報道しようとしないマスコミの姿勢と言える。
(206~207ページ)

先ほども述べましたが、過去の戦争での犠牲は全て埋没原価なのだから、将来の日本社会の発展のためにどういった政策をすべきかという意思決定には何ら影響を与えません。しかし、日本人は、どうしても過去の犠牲を無駄にしたくないという気持ちが強いので、国の指導者は、それに配慮しないと国民の納得を得られません。

もしも、日本国民の霊に対する気持ちが希薄であれば、総理大臣が靖国神社に参拝するかしないかは問題にはならないでしょう。他国に批判されたら、すぐにやめればいいのです。でも、それが難しいのは日本国民の霊を重んじる宗教観があるからです。

これを無視して批判を繰り返していても、何も得られないでしょう。


同書には、井沢さんと産経新聞古森義久さんの対談も収録されています。その対談で古森さんは以下のように述べています。

左翼の特徴として、相手の悪魔化(デモナイゼーション)があります。自分の主張自体の正統性の論証が難しいために、ひたすら自分と反対側の意見をことさら悪く歪めてけなす。
(330ページ)

他人を批判ばかりしている人は、そのうち悪口を言うようになっていきます。そして、事実の追究や国民性の理解は、やがて無視されます。虚報とは、批判の習慣化によって生まれるのではないでしょうか。