日本が第2次世界大戦に突入した理由は一つではなく、様々な要因が重なり合った結果だと思います。
その様々な要因の中には、統帥権もあったでしょう。現代日本は法律が整備されているので、特定の誰かの意思のみで国の行方が左右されることは少なくなっていると思います。ところが、戦前の日本では法律よりも統帥権が優先する状況にありました。
統帥権は幕末までさかのぼる
作家の司馬遼太郎さんは、「この国のかたち」の4巻で、戦前の昭和史が滅亡にむかってころがっていった頃から、統帥権が無限・無謬・神聖という神韻を帯び始めたと述べています。
このころから、統帥権は、無限・無謬・神聖という神韻を帯びはじめる。他の三権(立法・行政・司法)から独立するばかりか、超越すると考えられはじめた。さらには、三権からの容喙もゆるさなかった。もう一ついえば国際紛争や戦争をおこすことについても他の国政機関に対し、帷幄上奏権があるために秘密にそれをおこすことができた。となれば、日本国の胎内にべつの国家―統帥権日本―ができたともいえる。
(143ページ)
戦前の日本を統治していた統帥権は一体なんだったのでしょうか。
幕末、中国で起こったアヘン戦争を知ったことで、日本は西洋諸国からの侵略の脅威を感じるようになります。諸外国の脅威を感じ始めたのは江戸幕府だけではありませんでした。むしろ、佐久間象山や吉田松陰など、在野の人々によって西洋列強からの侵略の危険性が説かれ、日本国内に広がっていきました。
このままでは日本が西洋諸国に侵略されるから外国人を日本から追い出さなければならないという攘夷思想が日本中に広がり、それがある時点から倒幕へと変わっていきます。幕府を倒すためには軍隊を動かさなければなりません。反乱を食い止める幕府も軍隊を動かして鎮圧しなければなりません。
ところが、幕府も長州藩などの反幕府も、正規の軍隊を動かそうとはしませんでした。
幕末の中ほどまで、幕府・諸藩とも、正規軍を動かさなかった。”有志”がいわば徒党として散発的に武装行動し、幕府もこれに対し新選組など警察権をもつ組織を行使していた程度だった。
過激派の本山のようになりはじめていた長州藩でさえ、元治元年(一八六四年)七月、京都にほとんど自殺的な大乱入を敢行した程度であった。それも、表むきは陳情団という形をとった。
(119ページ)
どちらの勢力も、戦っていた人々の身分は非常にあいまいです。このあいまいさは、戊辰戦争でも変わらず、最後の将軍徳川慶喜は自ら軍隊を指揮しませんでしたし、反幕府勢力の一角であった薩摩藩も藩主が軍隊を指揮せず西郷隆盛が勝手に藩軍を動かし倒幕を成功させました。
何が最も偉いのか
幕末のあいまいな指揮系統は、明治10年の西南戦争を引き起こします。西南戦争は西郷隆盛が明治政府に反旗を翻した内戦です。天皇に統帥権があったにもかかわらず、戊辰戦争で大きな功績を残した西郷隆盛こそが統帥と考える人々が多かったのでしょう。すでに明治政府を去っていた西郷隆盛はただの人だったのに彼を担いで大きな反乱を起こせたのですから。
誰もが法律に従わなければならないと考えていれば、法律の外にあるものを重要視することはないはずです。ところが、戦前は、法律とは別に統帥権なるものが、この国を支配していました。西南戦争で西郷隆盛に味方した士族も、西郷隆盛は法律を超える存在だと思っており、彼を統帥と考えるようになったのでしょう。
戦前の統帥権は、現代企業における会長のようなものだったのかもしれません。企業のトップは社長ですが、その上に創業者や元社長などが就く会長がいることがあります。社長は社内の規則に従って企業を率いていく立場にあるのですが、会長の意向を無視できません。会長の発言権が強ければ社内の規則よりも優先されます。
戦前の日本を支配していた統帥権も、現代企業の会長のようなものだったのかもしれません。
しかも統帥機能の長(たとえば参謀総長)は、首相ならびに国務大臣と同様、天皇に輔弼の責任をもつ。天皇は、憲法上、無答責である。
である以上、統帥機関は、なにをやろうと自由になった。満州事変、日中事変、ノモンハン事変など、すべて統帥権の発動であり、首相以下はあとで知っておどろくだけの滑稽な存在になった。
(143~144ページ)
現代日本では、多くの人が法律に従うべきだと思っているはずです。
でも、全ての人がそう思っているとは限りません。法律に反する行為をしても自分は許されると考える人もいるでしょうし、自分は法律を超える存在だと思っている人もいるかもしれません。
- 作者:司馬 遼太郎
- 発売日: 1997/02/07
- メディア: 文庫