幕末の薩摩藩に島津久光という殿さまがいました。厳密には、殿さまの父親という立場ですが、当時の薩摩藩で一番偉かったのは、島津久光です。
彼の生涯を描いた短編小説に司馬遼太郎さんの「きつね馬」があります。「きつね馬」は、文春文庫の「酔って候」に収録されている作品で、島津久光の行動が、彼の意思とは全く違う方向に時代を動かしていったことが描かれています。
おゆらの方の子であり、島津斉彬の弟
斉彬は、とても賢い殿さまで、外国の脅威から日本を守るためには、外国の文明を採り入れる必要があると考えていました。だから、海外の事情を詳しく知ろうとしたり、軍艦を自ら製造したりと、薩摩藩だけでなく日本全体の国力を高めることに務めていました。
しかし、斉彬は、志なかばで病に倒れ、この世を去ります。
斉彬には、数人の子がいたので、跡継ぎは、そのうちの誰かになるはずだったのですが、斉彬が亡くなった時には、彼の子たちは一人もこの世にはいませんでした。全員、早逝していたのです。
斉彬の子が立て続けに亡くなることから、「これは誰かの陰謀に違いない」と藩内で噂されるようになり、斉彬の父の斉興の妻の「おゆらの方」が怪しまれました。彼女が、斉彬の子たちを暗殺して、自分の子を跡継ぎにしようとしているに違いないというのが、その理由です。
この「おゆらの方」の子が久光で、斉彬とは腹違いの弟にあたります。
斉彬が亡くなり、彼の跡継ぎもいないことから、島津家の跡を継ぐのは久光となりそうですが、そうはなりませんでした。跡を継いだのは、久光の子の茂久でした。この辺りから、どうも久光の人生の歯車が少し狂っていたようです。とは言え、茂久は19歳という若さだったので、藩の実権は久光が握ることになります。
寺田屋事件がきっかけで浪人たちが京都で大暴れ
斉彬が亡くなってからの時代の流れは速く、江戸幕府は瓦解し始めます。
だから、幕府は改革を行って、権威を回復しようとします。そこで、久光は、幕政改革に加わって功績を残し、幕府に重用されようと考えました。
久光は、まず、軍勢を整えて京都へと向かいます。軍勢を率いて京都に向かえば朝廷が頼もしがるはず、そして、幕府も薩摩の軍勢を見れば戦慄して自分の意見を受け入れるに違いない、それが久光の狙いでした。
ところが、世間は久光が考えているようには動きませんでした。薩摩藩が動き出したという噂は、各地の浪人たちの耳に入り続々と京都にやってきました。浪人たちは、薩摩藩が討幕に動き出したと思ったのです。
でも、久光には討幕の意思はありません。だから、藩内の討幕派と彼らに味方する浪人たちが宿泊している京都の寺田屋を藩士に襲撃させ、一網打尽にしました。これが寺田屋事件です。
しかし、一旦、京都に集結した浪人たちは、その後、天誅と称して、幕府の役人たちを暗殺し始めます。久光の行動は、幕政改革どころか、幕府を窮地に追い込んだのです。
生麦事件でイギリスと討幕派が手を取り合う関係に
その後、久光は、軍勢を従えて江戸へと向かいました。
江戸城では、幕政改革を提案。そして、薩摩に帰る途中の生麦村で、久光は事件を起こしました。行列の前を通ったイギリス人を無礼討ちにしたのです。これを生麦事件といいます。
生麦事件の後、イギリスは幕府に賠償金を請求し、さらに薩摩藩との間で戦争となりました。最終的に薩英戦争は引き分けとなり、これを機にイギリスは薩摩藩に急接近します。そして、新式の武器をイギリスから購入した薩摩藩は、久光の意思とは関係のないところで、大久保利通や西郷隆盛に率いられ討幕を成功させました。
寺田屋事件を機に浪人たちが京都で大暴れしたこと。生麦事件の後でイギリスと薩摩藩が手を握ったこと。
これらは、幕府にとっては大きな痛手となりました。
自分の出世のために幕政改革を行おうとしたのに、自分の行いのせいで幕府がなくなってしまうとは皮肉なものです。
維新後、久光は、その憂さ晴らしにたくさんの花火を打ち上げたとか。
- 作者:司馬 遼太郎
- 発売日: 2003/10/11
- メディア: 文庫