ウェブ1丁目図書館

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言葉が思考を止める

言葉はとても便利な道具です。

例えば、「石」という言葉を発するだけで、相手に石という物体を連想させることができます。もしも、「石」という言葉がなければ、道端に転がっている石を指さして、相手に伝えなければなりません。

ハンバーガー、プリン、自動車、冷蔵庫、時計、野球、サッカー、オーケストラなど、物事に言葉が割り当てられていることで、我々人間は、声や文字を使って容易に意思疎通できます。

言葉とは、なんとすばらしいものなのでしょう。

思考や行動を決めるのも言葉

言葉が、物事を伝達するための便利な道具であることを誰もが知っています。しかし、言葉が、思考や行動の決定に深くかかわっていることは、あまり意識されていないのではないでしょうか。

NHKエンタープライズ番組開発エグゼクティブ・プロデューサーの丸山俊一さんの著書『結論は出さなくていい』では、映像という仕事を通じて、現代のような「正解のない時代」をどう生きていくべきか、その考え方が述べられています。タイトル通り、「結論は出さなくていい」という主張ですが、丸山さんのそこにいたるまでの思考の過程を知るのは、先が見えない現代を生き抜く知恵になることでしょう。

従来の言語学は、モノの名前は、ラベルに過ぎないと考えます。これは実在のモノの方が強いとする考えです。ところが、その発想を180度変えて、まず言葉が先にあると考えるとどうでしょうか。

これは、言葉によってモノの用途が決まると言うようなものです。丸山さんは、コーヒーカップを例に挙げています。コーヒーカップと聞いて連想するのは、白色の半球体の深さがない容器です。このような容器を見た時、これはコーヒーカップだと答えを出し、そこにはコーヒーが注がれなければならないと考えます。

もしも、コーヒーカップにみそ汁を入れたら、おかしなことをしていると思うのではないでしょうか。でも、よくよく考えてみると、みそ汁を吸うのにお椀を使わなければならない理由はありません。むしろ、熱々のみそ汁が入ったお椀より、取っ手の付いたコーヒーカップを持つ方が、落としにくいし、ヤケドもしにくいので便利です。

しかし、みそ汁が入ったコーヒーカップを見ると、多くの日本人が違和感を覚えるはずです。まさに言葉が思考や行動を決めているのです。

専門分化が物事の本質をわかりにくくする

近代化の過程で、人々の思考は、合理的、科学的な価値観に支配されていきました。

近代化により社会は豊かになっていきましたが、それにより、人々の思考や行動は、枠にはめられていくことになります。物事を数量化して計測できるようになることが近代化とも言えます。デジタルも、物事を数量化した概念です。デジタルは、0か1しかない世界であり、それは、善悪や正誤のように二元論で語られる世界です。

その二元論で語られる世界では、専門分化が進んでいきます。人々を理系と文系で分け、理系だと物理、化学、生物学などに分かれていきます。さらにそれらも次々と細分化が進んでいます。このように専門分化が進んでいくと、研究する領域が狭くなっていき、やがては、デジタルのように0か1で表現できる世界にたどり着くのかもしれません。

もしも、0か1の世界まで細分化した時、人々の思考はどうなるのでしょうか。きっと見える世界は狭いものとなり、全体を見失うはずです。

細分化すると物事の隅々が見やすくなりますが、その代償として全体が見えにくくなり、物事の本質が理解できなくなるでしょう。

簡単にわかる世界は可能性のない世界

どこまでも細分化していき、簡単にわかる世界にたどり着いたとき、人類の可能性はそこで終わります。

細分化の過程で発見した物事に名前を付けていけば、人々の思考は、その名前に支配され、それ以上の発想が生まれなくなるはずです。丸山さんは、簡単に「わかる」ことの方がよほど危険だと述べています。

さまざまな物事への関心を同時に走らせ、一見無関係なもののなかにある同質性を発見し、異質性を心に留める。すでに確立したジャンルのなかで従来の図式で語られるところからこぼれ落ちる断片を丁寧に拾い上げ、どこか頭の片隅にぼんやりと浮かしておく。そこで焦ってはいけない。なんらかの見方を見つけて安心したいがために、従来からのものの見方、考え方に押し込めてしまってはいけないのだ。(288~289ページ)

言葉は便利な道具ですが、時に多様な思考を邪魔する道具にも変わります。

漠然とした答えも言葉もない世界を漂い続けている状態を保つことこそが、人類の可能性を広げていくのではないでしょうか。