ウェブ1丁目図書館

読書で得ること感じること。ここはウェブ1丁目にある小さな図書館です。本の魅力をブログ形式でお伝えしています。

意志の強さだけで結果が出るとは限らない

この世の中には、たくさんの職業があります。サラリーマンと一口に言っても営業、購買、製造などの業務がありますし、会社にも商社、メーカー、小売りなどがあります。

社会は、様々な仕事に従事する人々で構成されており、どれか一つでも仕事が無くなれば不便に感じる人が出てきます。大きな会社が倒産すると社会に多大な損害を与えますが、個人経営のお店が潰れても地域の経済に負の影響を与えます。

こう考えると、どのような仕事でも社会に貢献しているので、職業に貴賤はないと感じます。

内面では職業に差があると思っている

しかし、職業に貴賤はないと言っても、やはり、人を評価する時、その人の職業でランク付けのようなことをしてしまうもの。

作家の五木寛之さんの著書「人生案内」では、小さなお店で働く20歳の女性の相談が紹介されています。その女性は、毎日仕事を頑張ってはいるのですが、友人たちと勤め先の話をする時、なせかためらってしまうそうです。社会に階級があるように職業にも階級があるのが現実なのではないかと。

この相談に対して五木さんは、一生懸命に職業に打ち込み社会貢献し、生活の資を得て生きているのだから立派なことだと述べています。その反面、人は他人を肩書きで評価する面があることも述べています。

プロアスリートや歌手のように他人からうらやましがられる職業がある一方で、目立たない仕事に従事している人もいます。上場会社の社長とフリーランスを比較すると、仕事に貴賤はないと言いながらも、やっぱり上場会社の社長の方が立派に見えます。これは、人の感情なので仕方のないことのように思えます。

職業の貴賤という問題なのだけれども、これはもう職業の貴賤という問題だけでなくて、人間の社会には、こうあるべきだとか、本来こうなんだとか、そういう建て前というものがあって、現実にはぜんぜんそれがそうでないということはある。人間の社会というのは、もともとそういう矛盾とか不条理とかに満ちているものだ、というふうに思ったほうがいいですね。
(98ページ)

日本の憲法では、基本的人権の尊重がうたわれており、人は生まれながらに平等だとされています。他の先進国でも、同じようなものでしょう。

憲法で人は平等だとされているのは、暗に人は平等ではないと示唆しているように思います。人の容姿は同じではありません。歌が上手な人もいれば勉強ができる人もいます。何かしらの取り柄を持って生まれてきたとしても、それが、自分が生きる時代にどれくらい必要とされるかはわかりません。

人が不平等に生まれてくることを否定できません。だからと言って差別があってはなりません。憲法は、不平等を認めた上で差別をしてはならないと言っているように感じます。

自己責任と市場原理

また、35歳の会社員の方は、大企業が次々と倒産したり合併したりするのを見て、何を頼りにすれば良いのかわからないと相談しています。

バブル経済崩壊後、終身雇用が厳しくなりはじめました。昔は、一つの会社で定年まで働き続けるのが当たり前とされていましたが、大企業でも倒産するようになってからは、一つの会社で定年まで働くのが難しくなってきています。

こういう時代では、自分以外に頼りにできるものが少なくなっています。

自己責任というのは、そういう時代なのかもしれない。どういうことかというと、不信の時代ですね。つまり、何かを信頼してそれにおまかせするという時代がかつてあった。国家を信頼して国家に自分の命をあずけるという時代が。でももう、それができなくなったということなのです。
自己責任というのは、ある意味で人間を信用できないという、そういう社会だと覚悟することだから、考えてみると、つらいよね。「渡る世間に鬼はない」というのではなく「渡る世間は鬼ばかりだ」というふうに覚悟して生きていかなければいけないわけだから。
(168~169ページ)

会社も当てにできない、社会保障も今後は縮小するのではないか、そんな不安な世の中では、自分でどうにかしなければなりません。こうなってくると、社会は弱肉強食になっていくのではないでしょうか?

自己責任論とともに議論されやすいのが市場原理です。

市場に何もかも任せていれば、世の中はうまく回るという考え方は確かにその通りです。誰も必要としない製品を作っていても売れませんから、そのような製品を作っている会社は市場から退場していきます。そうすると、市場に残るのは、世の中から必要とされている製品、サービス、会社だけとなります。

まさに弱肉強食の社会です。多くを稼ぎ、多くを蓄えた者が勝者となる資本主義社会では、敗者は生きていけないように思います。しかし、多くを稼ぎ、多くを蓄えた者は、多くを施すというのが市場原理の要です。市場原理が働いている社会では、勝者と敗者が生まれますが、実は勝者が多くを施すことで不平等が是正される面があるのです。


余談ですが、最近、「自己責任」を間違った意味で使っている人が増えています。

自己責任とは、正しい情報がすべて公開されている状況で意思決定をした場合、その結果を行為者が受け入れるという意味です。例えば、間違った情報が流布され、それを信じて何かしらの投資をして損失を被った場合には自己責任とはなりません。

不確かな情報を発信して、「自己責任でお願いします」と言うのは、自己責任の本来の意味とは異なります。

意志の強さは生まれつきか?

20歳の学生さんは、自分の意志の弱さに悩んでいました。

多くの人は、意志が弱い人を見ると、努力をしていないと感じます。

では、努力によって意志の強い人間になれるのでしょうか?

意志の力というのは、自分で意志を鍛えれば強くなるか。それは鍛えれば強くなるだろう、と思うのです。鍛えれば強くなる。習慣づけて頑張れば強くなる。だけど、意志を鍛えるということを自分に課して、倦まず弛まずそのことをやっていくというためには、まずすごい意志の強さが必要だということです。
(188ページ)

精神の鍛練をできる人は、そもそも精神力が強いからできるのでしょう。

意志が強いか弱いか、これは生まれつき決まっている部分があると思います。五木さんは、走るのが速い人、歌が上手な人がいるのと同じように意志が強い人もいると考えています。走るのが速い人は、トレーニングをすればもっと速く走れるようになります。意志の強さも、トレーニングによって強くできます。しかし、生まれながらに意志が弱い人は、意志を強くするトレーニング自体が苦痛に感じるので、なかなかトレーニングを継続できません。

では、意志が弱い人は何の努力もしなくても良いでしょうか?

ぼくはよくたとえ話をするのです。風を受けて走るヨットがあったとします。いくら走りたいと思っても風が吹かなければヨットは走らないですね。無風状態では走らない。だからといって帆も上げないで昼寝をしていたのでは、せっかくいい風がふわっと吹いてきても、ヨットは走るチャンスを逃してしまう。
だから、ヨットが走らないのは俺のせいじゃないよ、と。それは風が吹かないせいだから、しかたがない、というふうに思っていいのですね。ただ、風が吹いたときにその風を受けて走れるように、せめて帆を上げて、どっちからか風が吹いてこないだろうかな、というふうに風を待つ、そういう気持ちの準備だけはしておいたほうがいいのです。
(195ページ)

意志が弱いのは、これは仕方がないことだとしても、まったく努力しなければ何の結果も出ません。

世の中には、風を吹かすことができる偉人もいますが、多くの人は風が吹くのを待つことしかできません。

風がいつ吹くかわからないけども、吹いた時には前に進むことができる状態にしておく。船が動きはじめたら、水を手でかいて、もっと速く走るようにする。

風に乗って調子よく走っているあなたの姿を見た人は、きっと、「よく努力する人だな」と思うことでしょう。でも、本当は風が吹いている時も吹いていない時も、同じように努力をしており、ただ目に見える形で結果が出ているか出ていないか、それだけの違いでしかないのです。


仕事に貴賤はないと言っても、やはり、業績が良い会社や大きな会社に勤めている人は立派な仕事をしているように見えます。組織全体で努力しているから、結果が出ているのでしょうが、風が吹いていることを忘れて傲慢になっていると、やがて風が止まった時に会社が傾くことだってあります。

上手くいくときは、良い風が吹いているもの。

何もかもを努力や自己責任で済ませることはできないのです。