ウェブ1丁目図書館

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人の哀しみに寄り添う

生きていれば、悩むこともありますし、困難に直面することもあります。

努力によって克服できる場合もあるでしょうが、自分の力ではどうすることもできないことだってあります。

ある困難に直面した時、人は、その困難を乗り切る方法を知ろうとしますし、その困難を乗り切る方法を知っている人からアドバイスを受けようとします。専門家に依頼して、不都合を解消することもあるでしょう。

しかし、様々な方法を試しても、克服できない困難はあります。そうなると、もはや奇跡が起こるのを願うしかありません。

人々に欠けていたのはやさしさ

エスがユダの荒野で気付いたのは、そこに住む人に「やさしさ」と「愛」が欠けていることでした。

作家の遠藤周作さんは、著書の「イエスの生涯」の中で、そのように述べています。

クムラン教団ヨハネ教団も人々に悔い改めと神の怒りを教えましたが、愛については語ることはありませんでした。

それに対してイエスは、「神はそれらの人生をただ怒り、罰するためにだけ在るのか。神はそれら哀しい人間に愛を注ぐために在るのではないのか」との思いを強めます。

宗教者には、時として奇跡を起こすことが求められます。しかし、イエスは奇跡を起こすことはできません。その意味では、彼は無力です。

ただ、愛の神、神の愛を語るだけ。でも、語るのは容易いことですが、証明するのは難しく、しかも、愛は現実には無力です。そして、神は、不在か、沈黙か、怒りを暗示するだけで、愛がどこにあるのか人々が気付くのは難しいことでした。

そんなことよりも、目が見ない人は目が見えるようになりたい、ハンセン病の人は病気を治して欲しいと、現実的な望みをイエスに叶えて欲しいと思っていました。

現実的な対応

エスの考え方は、弟子にも民衆にも理解できないものでした。

幸いなるかな 心貧しき人 天国は彼等のものなればなり
幸いなるかな 泣く人 彼らは慰めらるべければなり(27ページ)

その言葉だけで、救われる人はいるのか。

それよりも、貧しき人には、幾ばくかのお金を与えた方が良いのではないか。

お金ではなくとも、貧困、病気、ケガなど、人々が抱える苦痛を取り除くための具体的な行動こそが求められるのではないか。

その通りだ。

現代社会でも、自然災害が発生した時には、飢えをしのぐために食料を援助したり、家を失った人には住む場所を提供したり、職を失った人には次の仕事をあっせんしたり、具体的な施策を尽くすべきだという意見が多く、被災者もそれを望みます。

エスの時代も同じだったに違いありません。

エスを裏切ったユダは、油をお金に換えてみじめな人に施した方が良いと考えました。その方が、みじめな人が救われるのは誰もがわかることです。

しかし、イエスは、そのような具体的な救済を図ろうとはしませんでした。

貧困、病気、ケガなどで苦しむ人にとって、本当に必要なものは何か。

きっと、今現在の苦痛を取り除くことが最大の喜びとなろう。

多くの人は、そう思うはずです。

でも、果たしてそうでしょうか。

みじめな人は、同伴者を求めているのではないか。神が悔い改めと罰するだけの存在であるのはおかしい。むしろ、裁くことではなく、同伴者となり共感すること、ただ寄り添うこと、それこそがみじめな人には必要なのではないか。

「あなたの敵を愛し、憎む人を恵み、呪う人を祝し、悪くいう人のために祈りなさい。右の頬をうたれたなら、左の頬をさしだすがいい。上衣を奪う人があれば、下衣も与えよう。人にしてもらいたいこと、それをそのまま、人にしてあげればいいのだ……人を裁くまい。人を罰することもよそう。許そう。与えよう」(105ページ)

神のお告げを聞くことができる者がメシヤになれるのではなく、人々の哀しみに寄り添える者がメシヤとなる資格があるのでしょう。

神はただ沈黙を守るだけ。