明治維新を実現した勢力と言えば、薩摩藩、長州藩、土佐藩が有名です。
この薩長土の3藩が、政治的に大きな役割を果たしたことが、倒幕につながったことは言うまでもありません。しかし、政治力だけで、倒幕が可能だったかというと、そうではありません。倒幕は、それなりの軍事力、そして、技術力がなければ実現しなかったでしょう。
技術力で、明治新政府を支えたのが肥前佐賀藩。その功績から、維新後は、上記3藩に加えて、薩長土肥と総称されるようになりました。
商人たちの座り込みがきっかけで財政再建を実施
幕末の肥前佐賀藩の殿さまは、鍋島閑叟です。この時代に佐賀藩に彼が現れなければ、明治維新は実現しなかったかもしれません。
あまり有名な殿さまではありませんが、司馬遼太郎さんの時代小説「酔って候」に収録されている「肥前の妖怪」は、鍋島閑叟を主人公としています。
鍋島閑叟が、技術に目覚めるきっかけとなったのは、17歳の時。
江戸から佐賀に帰る支度を終え、藩邸を出発して品川で昼食をとった後、なぜか、行列が進まなくなりました。なぜ行列が進まないのかと家臣をしかりつけると、味噌や醤油などの日用品の購入代金を払っていなかったため、商人たちが座り込みをして動けないことを白状しました。
これを聞いた鍋島閑叟は、とても悲しくなり、これからは大名も金儲けをしなければならないと悟ります。そして、財政再建のため、密貿易をはじめ、商人たちへの借金は2割を返済し、残りは献金という名目で踏み倒しました。
技術力の向上を目指す
「まず、富国。しかるのち強兵」
財政再建をした鍋島閑叟が次にとりかかったのは、技術力を向上させ、軍事力を強化することでした。
まだペリーが来航する3年前に彼は長崎砲台の大工事を始めることを決意します。そして、その2年後にこれまでに類を見ない日本史上最大の洋式要塞をほぼ完成させます。
彼の道楽は、それだけでは終わらず、密貿易で得た利潤で、陸戦用の銃砲の製造に取りかかります。このようなことが幕府に知れると、手痛い処分を受けることになりますが、鍋島閑叟は江戸城内では口を閉ざして、藩の内情を知られないようにしていました。
武士とは戦いに勝てる者
武士道は、戦で負けた時に潔く死ぬことが強調されます。しかし、鍋島閑叟は、武士をそのような存在とはとらえていません。
「武士とは、戦いに勝てるものをいうのだ。いま、佐賀藩百人と他の藩士千人と合戦してみよ、勝つに四半刻もかからぬ」(287ページ)
彼にこう言わせるところまで、肥前佐賀藩の軍事力、特に西洋技術を採り入れた軍制が進んでいました。そして、佐賀藩の軍事力は、戊辰戦争で大いに貢献し、明治新政府は、薩長土3藩から薩長土肥になります。
海軍力の弱い官軍に艦隊を与え、さらにその施条銃と後装砲、アームストロング砲の威力をもって関東、江戸、東北、北陸、蝦夷地などあらゆる戦線で大なり小なりの勝因をつくっている。(306ページ)
明治維新は、身分の低い武士たちが志士となり、奔走したことで実現したことが強調されますが、佐賀藩の技術力が貢献したことも忘れてはなりません。
思想だけでは社会は変わりません。また、技術だけでもそれは無理でしょう。両者が重なり合った時、新たな社会が生まれるのではないでしょうか?
なお、明治維新から間もなくして、鍋島閑叟はこの世を去っています。
- 作者:司馬 遼太郎
- 発売日: 2003/10/11
- メディア: 文庫