日本史の中には、まだまだわかっていないことがあります。
事実かどうかわからないこと。事実ではあるけどもなぜそのようなことが起こったのか疑問が残ること。
日本史の中の謎は、今後、新たな史料の発見でわかることがあるかもしれません。逆に謎は謎のまま残り、事実や原因がこの先もわからないことがあるかもしれません。
特に謎が多いのは、戦乱の時代です。史料が燃えてしまったり、重要な事実を知る人が死亡したりということがありますから、確かな情報を得るのが難しい部分があります。戦乱の時代には、多くの伝説も生まれますから、さらに謎が深まります。
上杉謙信の単騎斬り込みはあったのか?
作家の井沢元彦さんは、著書の「逆説の日本史 別巻4 ニッポン戦乱史」で、日本史の中の戦乱に焦点を当て、独自の視点で様々な謎に迫っています。
日本史上、戦国時代ほど世の中が乱れたことはありません。そして、戦国時代には様々な噂があり、どれが事実なのか、ただの言い伝えに過ぎないのか、判断が難しい内容が多くあります。
武田信玄と上杉謙信が12年に渡って戦った川中島の戦いも、事実なのか判断するのが難しい噂があります。それは、4度目の川中島の戦いの際、上杉謙信が武田信玄の陣に単騎で斬り込んだという話です。
この話は、ただの作り話だと考える人が多いです。総大将が討ち取られた時点で味方の敗北が決まるのに単騎斬り込みのような危険な行為を上杉謙信が進んでするはずがないというのが理由です。しかし、井沢さんは、上杉謙信の単騎斬り込みはあったと考えています。
これらが、井沢さんが謙信の単騎斬り込みがあった理由として挙げている内容です。特に戦場の大混乱については、武田信玄の弟の信繁が討ち取られたのに討ち取った者が誰なのかわかっていないことから想像できることです。そのような大混乱の中では武田信玄の陣は手薄となり、上杉謙信が単騎で突っ込むことも可能だったと考えられます。
また、武田側から書かれた甲陽軍鑑にも、敵の総大将が武田の本陣まで斬り込んできたと「武田軍の恥」を記載しているのだから、謙信の単騎斬り込みは、やはりあったのではないかと思われるのです。
西郷隆盛は負けるために反乱を起こした?
江戸幕府が倒れ明治という新たな時代が訪れた後にも、内戦が起こっています。それは、最後の内戦となった西南戦争です。
西南戦争は西郷隆盛が起こした反乱ですが、明治政府に反抗したのは彼だけではありませんでした。前原一誠や江藤新平らも新政府に不満を持って起ち上がっています。
明治政府ができて間もない時期にとんでもない汚職事件が起こります。長州出身の山城屋和助が国家予算の1%もの公金を使いこんだり、同じく長州出身の井上馨が民間商人の村井茂兵衛から尾去沢鉱山を奪い取るといった事件です。
このように腐りきった明治政府をただすために江藤新平は起ちあがり佐賀の乱を起こしました。しかし、佐賀の乱はすぐに鎮圧されます。逮捕された江藤新平は裁判で政府の悪を追及しようとしましたが、たった2日の審理で死刑が決まり、すぐに執行されさらし首となりました。
西郷隆盛は、政府の悪を糺すため不平士族を率いて陸路東京を目指します。しかし、政府軍が守る熊本城を落とせず鹿児島に退却し、自害しました。
井沢さんは、西郷隆盛は西南戦争で勝つつもりがなかったと述べています。
なぜなら、西郷隆盛が本気で勝つつもりなら、汽船をチャーターして兵士を横浜か静岡まで海路輸送すれば良かったからです。この時代はレーダーはないので、海軍の監視の目を盗むのは容易なことです。それなのに陸路東京を目指したのは、最初から勝つつもりがなかったからです。
西郷は確かに現状に不満であり激しい怒りを持っていたと思う。それは間違いない。
(中略)
だが、だからといって、自分が勝てば、曲がりなりにも誕生した新生日本を潰してしまうことになる。それは本当に正しいことなのか。西郷は自問自答したに違いない。
そして、その結果、自分は腐敗堕落した新政府の人々に、もう一度目を覚まさせるため、犠牲となるべきだと考えたのではないかと思う。つまり諌死だ。
(202~203ページ)
西南戦争以後、明治が終わるまで汚職事件は起こりませんでした。
本書では、日本史の中の有名な戦いが多く紹介されています。
長篠の戦いや関ヶ原の戦いなど、通説となっている戦いの内容に井沢さん独自の解釈や反論が述べられていて興味深いです。長篠の戦いで、なぜ武田軍は鉄砲を使わなかったのか、なぜ武田騎馬隊は力を発揮できなかったのか、納得の理由が述べられています。
戦乱で史料が失われても、当時の社会がどうだったのか、当時の人々の考え方がどのようなものだったのか、こういった視点から戦いを考察すると今まで気づかなかった歴史の事実を発見できるのではないでしょうか。

- 作者:元彦, 井沢
- 発売日: 2013/12/06
- メディア: 文庫