天下分け目の戦い。
日本では豊臣秀吉と明智光秀が雌雄を決した天王山の戦いをこのように言うことがあり、スポーツでは、この一戦で優勝が決まるという大事な試合を天王山と表現することがあります。
この天下分け目の戦いには、もう一つあります。それは美濃国(現在の岐阜県)で起こった関ヶ原の戦いです。関ヶ原を舞台にした戦いは、日本史上三度行われており、そのいずれもが天下を二分する大きな戦いだったのです。
壬申の乱
作家の井沢元彦さんの著書「逆説の日本史 別巻2 ニッポン風土記[東日本編]」では、三度行われた関ヶ原の戦いのうち二度の戦いについて簡潔に解説されています。
壬申の乱は、天智天皇の子の大友皇子と天智天皇の弟の大海人皇子が皇位継承をめぐって戦った古代史上最大の内乱です。この時の勝者は大海人皇子で、その後即位して天武天皇となっています。
井沢さんは、大海人皇子の勝利の原因の一つは、美濃勢が味方したことにあると述べています。
壬申の乱に敗れた大友皇子はこの地で自害し、戦死した人々の血が川を黒く染めたとの言い伝えが残っています。
関ヶ原の地名は、壬申の乱当時にはありませんでした。この地が関ヶ原と呼ばれるようになったのは、701年に制定された大宝律令からです。この時、不破関と呼ばれる「国境検問所」が設けられてから、以後、「関のある原」という意味で関ヶ原と呼ばれるようになりました。
井沢さんは、不破関を設置した理由には、おそらく壬申の乱の教訓があったからではないかと考えています。
ちなみに関東と関西という言い方は、不破関を基準にしたもので、関所より東を関東、西を関西としていました。現在の東日本と西日本の区分のようなものだったんですね。
南北朝時代の天下分け目の戦い
南北朝時代は、鎌倉幕府を倒すために協力した後醍醐天皇と足利尊氏が、倒幕後に政治理念の違いから争うようになった時代です。後に足利尊氏が北朝を樹立し、2人の天皇が同時に皇位についたことから、そのように呼ばれるようになりました。
南北朝時代に両勢力が激突した天下分け目の戦いは、青野原の戦いと呼ばれていますが、ここは関ヶ原のやや東に位置していました。
後醍醐天皇方は、奥州からはるばる北畠顕家が遠征してきました。対する足利尊氏方は土岐頼遠。
この地の守護をつとめていた土岐頼遠は、地の利を生かして手柄をたてようと考えていましたが、奥州兵によって総崩れとなります。これで後醍醐天皇方が天下分け目の戦いをものにしたかに思えましたが、奥州から遠路はるばるやってきた北畠顕家の補給が十分ではなく、都を目前にして退却せざるを得ませんでした。
この結果、後醍醐天皇は都から吉野に逃れることになり、足利尊氏は北朝を樹立しました。
天下分け目の戦いと言っても、青野原の戦いは、その後長期にわたる南北朝の戦乱の幕開けとなったので、他の2つの戦いのようにこれで世の中が静かになるといったものではありませんでした。
徳川家康 VS 石田三成
最後の関ヶ原の戦いが、1600年に起こった徳川家康と石田三成の戦いです。
この時の戦いが、最も有名な関ヶ原の戦いですね。勝者は徳川家康で、この時の勝利により江戸幕府を開くことができました。
天下を二分する大きな戦いが、三度も関ヶ原で起こった理由は何なのでしょうか?井沢さんは、その理由を以下のように述べています。
壬申の乱以来、天下分け目の決戦が三度もこの地で行われたのは決して偶然ではない。東の勢力と西の勢力が大合戦をするにふさわしい広い土地が、ちょうどこの辺りにあったからなのである。
(209ページ)
同じ天下分け目の戦いでも、天王山の戦いの場合は、先に天王山を奪取した軍勢が勝つという構図でした。
一方の関ヶ原の戦いは、天王山の戦いとは異なり、両軍が自らの力をいかんなく発揮するにふさわしい広大な土地で行われました。つまり、関ヶ原は力と力がぶつかり合うのにふさわしい地形だったのです。
現代では、関ヶ原で戦争が行われることはありません。
平和なことは良いことですが、力と力がぶつかり合うのにちょうど良い地形なのですから、スポーツの頂上決戦は関ヶ原で行うのはどうでしょうか。
プロ野球の日本シリーズは、雨や風の影響を受けないドーム球場の関ヶ原スタジアムで行うとか。競馬の日本ダービーは、直線2400メートルの関ヶ原競馬場で行うとか。
逆説の日本史 別巻2 ニッポン風土記[東日本編] (小学館文庫)
- 作者:元彦, 井沢
- 発売日: 2012/10/05
- メディア: 文庫