ウェブ1丁目図書館

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明治維新に貢献した薩長土肥の風土

人の性格に影響を与える要素はいくつかあります。住んでいる地域もその一つで、「県民性」という言葉で表されるように各地域に特徴的な文化が根付いています。

奈良県には奈良県の県民性、鳥取県には鳥取県の県民性、香川県には香川県の県民性、熊本県には熊本県の県民性があり、それぞれの地域に独特の文化を築き上げているものです。

さて、明治維新は、薩長土肥の4藩が主体となって実現しました。これら4藩には、世の中を大きく変えるような性格が形成される地盤があったのでしょうか?

薩摩藩

明治維新の実現に最も中心的な働きをした薩摩藩は、現在の鹿児島県にあたります。日本の最も西にある地域に住む人たちが、なぜ日本全体を変える大きな働きをしたのでしょうか。

作家の井沢元彦さんの著書「逆説の日本史 別巻1 ニッポン風土記[西日本編]」では、西日本の各地域の風土について簡潔にまとめられています。

薩摩は、戦国時代には南蛮文化の入り口となっていましたから、外国から様々な文化を受け入れるのに適した場所だったと言えます。ところが、薩摩では、文よりも武を尊び、女性よりも男性を重んじる保守的な風潮がありました。そのため、薩摩は、歴史の中で「革新」と「保守」のせめぎ合いがあり、明治維新では、革新が保守に勝ったと考えられそうです。

1853年のペリー来航で、「日本は海に囲まれているから安全だ」から「日本は海に囲まれているから最も危険だ」となってしまいました。西洋の驚異的な海軍力を目の当たりすれば、そのような認識に変わるのも当然です。

この時、日本国内で、数少ないながらも危機感を持った先覚者が現れます。当時の薩摩藩主の島津斉彬もその一人で、彼は薩摩藩の近代化を図ることにしました。これが薩摩藩明治維新を実現する第一歩でした。

後に薩摩藩西郷隆盛大久保利通の二大巨頭に率いられることになります。2人の住いはごく近いところにあり、幼少期からの遊び友達でした。

イギリスで誕生したボーイスカウトは、実は薩摩の教育システムに注目したとされています。薩摩藩では郷中教育というものがありました。男子が青年になるための一段階として、青年の自治組織のようなものが作られ、青年が少年を教育するのが郷中教育です。明治維新を実現した薩摩藩士は、西郷隆盛大久保利通はもちろんのこと、例外なく郷中教育を体験していました。薩摩藩明治維新の実現に貢献できたのは、革新と保守がせめぎ合っている最中も、藩内で郷中教育が行われ続けたからなのでしょう。

長州藩

長州藩は現在の山口県にあたります。当時は、東側が周防、西側が長門と呼ばれていました。

西側の長門の風俗は、新人国記という書物の中で以下のように記されているそうです。

「万事ゆったりとおだやかで、落ち着いた話しぶりだ。何事にも、思慮深いがおたがいの意見を気にし遠慮する。何事も始まれば突っ走るが、あきるのも早い。武士としては、あんまり良い風俗とはいえない」
(140ページ)

「何事も始まれば突っ走る」というのが、幕末の長州藩士にぴったり当てはまります。

外国船に砲撃を開始したり、御所を攻撃したり、一度動き出すと止まらないのが長州藩。その勢いのまま、一時は破滅しそうになりましたが、高杉晋作桂小五郎などの活躍で明治維新に大きく貢献しています。

また、東側の周防の出身者には、大村益次郎伊藤博文井上馨がいます。

土佐藩

土佐は現在の高知県にあたります。

土佐については、井沢さんは以下のような印象を持っています。

土佐といえば「いごっそう」という言葉がある。何と訳すべきか、「頑固者」いやちょっと違う。筋は一本通っているが、決して頑なではなく柔軟性もある。
やはり坂本龍馬がその代表だろう。
(259ページ)

土佐藩は、関ヶ原の戦い以来、山内家が支配する国となり、それまでこの地に住んでいた長宗我部家の人々は郷士と呼ばれ差別を受けていました。

坂本龍馬勝海舟と出会い、アメリカが平等な国だと知らされると、藩の枠や身分の枠にとらわれない国を作ることに奔走します。残念ながら、坂本龍馬は明治までは生きることができませんでしたが、他の土佐藩士たちは明治維新実現後、維新政府が平等でも公正でもないと批判し、自由民権運動を繰り広げます。

身分制度の厳しかった土佐藩だったからこそ、平等に対する強い意識が生まれたのでしょう。

肥前藩

薩長土肥の「肥」は肥前藩を指し、現在の佐賀県長崎県を藩領としていました。

肥前は閉ざされた国で、とても明治維新に貢献するような藩には思えなかったのですが、鍋島閑叟が藩主となってから藩の近代化が著しく進みます。

「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉は、鍋島家が作った書物「葉隠」に記載されている文句です。この言葉を読むだけで、古臭い印象を受けますね。

江戸時代に日本は外国と交易をしない鎖国体制化にありましたが、肥前藩はさらに日本国内の他の国々との交易も行わない二重鎖国体制を布いていました。このように完全に内向きだった肥前藩が近代化を推し進めるようになったのは、1808年にイギリスのフェートン号が長崎に来航してからです。

フェートン号は日本の領海で無法を働きましたが、警備にあたっていた肥前藩はなす術がなく、幕府から叱責されました。この時、「今に見ておれ」とばかりに鍋島閑叟は藩政改革に乗り出します。

そして、幕末には日本で最も近代化した藩となった肥前藩は、維新政府に味方することを決断しました。

肥前藩の維新政府加入は、幕府に大きな打撃を与えます。肥前藩は、当時、世界最強のアームストロング砲の国内生産に成功していました。これを上野の戦いで長州の大村益次郎が使用し、幕府側の彰義隊をあっという間に壊滅させました。


薩摩藩の教育力、長州藩の行動力、土佐藩の平等思想、肥前藩の技術力。

明治維新は、この4つが合わさったことで実現できました。そして、それぞれの個性が磨かれたのは、地理的条件や気候的条件など、その地域特有の風土による部分が大きかったのかもしれません。

逆説の日本史〈別巻1〉ニッポン風土記「西日本編」 (小学館文庫)

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