ウェブ1丁目図書館

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関ケ原の戦いの通説はどこまでが史実なのだろうか

日本史上もっとも有名な人物は徳川家康でしょう。戦国時代を終わらせ泰平の世を築いた功績も、他の歴史上の人物と比較して偉大なものだったと言えます。

だから、徳川家康については、その生涯が詳しくわかっているように思われている面がありますが、意外と誤解されている部分もあります。また、有名な逸話も多数ありますが、その信憑性が怪しいものもいくつかあります。例えば、三方ヶ原の戦い武田信玄に敗れた徳川家康が、逃げる途中で脱糞したという話は創作とされています。

その後の関ケ原の戦い大坂の陣についても、誤解されて伝わっている話があります。

直江状は本当か

歴史学者の渡邊大門さんの著書『誤解だらけの徳川家康』は、史料に基づき徳川家康の実像を一般向けにわかりやすく紹介してくれています。これまでの戦国期の松平・徳川氏については、江戸期の家譜・記録類をもとにした「松平・徳川中心史観」であり、徳川家康を神格化したものだと、渡邊さんは指摘しています。

徳川家康と言えば、関ケ原の戦いに勝利し、その後、江戸幕府を開き、豊臣家を滅ぼして泰平の世を築いた功績が大きいです。

関ケ原の戦いは、日本国中の大名が参加した大規模な合戦であったことから、各大名家に残る史料を突き合わせていけば事実がわかるだろうと思えますし、実際にそのようにして関ケ原の戦いの経緯が明らかにされていると思っている人は多いでしょう。しかし、その関ケ原の戦いにしても、史料の裏付けが弱い出来事が通説として定着しています。

関ケ原の戦いは、会津上杉景勝を討伐するために徳川家康が諸将を率いて東に進軍したのを見て、西の石田三成が軍勢を整えて上杉と協力し徳川を挟み撃ちにしようとして起こったとされています。

そして、徳川家康が上杉攻めを実行に移した決定打となったのが、上杉景勝の家臣直江兼続が彼に送った直江状だと伝わっています。直江状には、徳川家康を挑発した文章があり、それが彼を怒らせ、上杉攻めを決断させたというのが通説です。

しかし、直江状は、偽作とする見解と本物とする見解があります。

関ケ原の戦いは、徳川家康の勝利で終わったことから、上杉家は、その後、転封を命じられ経済的に厳しくなりました。そうなったのは、直江兼続のせいだとして、上杉内部で、敗戦の責任を彼に押し付けるため、直江状が伝わるようになったのではないかとのこと。直江家は断絶していたので、敗戦後のすべての責任を直江兼続に押し付ける形にしたかったのかもしれません。

徳川秀忠関ケ原に遅れたことは大失態だったのか

関ケ原の戦いでは、徳川は、家康と秀忠の2つに軍勢を分けていました。

主力は秀忠が率いる軍勢だったのですが、真田昌幸がたてこもる上田城の攻略に手こずったため、主力軍は関ケ原の戦いに参戦できなかったとされています。そのことに家康は大いに激怒したと伝えられています。

しかし、この話も、事実ではない可能性があります。

まず、徳川の主力が秀忠軍だったというのはまちがいで、家康軍との差はなかったようです。

軍勢を2つに分けたのは、一言で言うとリスク回避だったとのこと。家康軍は東海道、秀忠軍は中山道を通って関ケ原に向かえば、どちらかの軍勢は、決戦の日に関ケ原に到着しているだろうと考え軍勢を2つに分けたのであり、どちらかが主力といったことはありませんでした。

これは、現代でいうと、出張の際に社長と副社長が同じ航空機に搭乗しないというのと同じ発想だったのでしょう。そう考えれば、秀忠が決戦の日に関ケ原に到着できなかったことは、想定内であり、大失態とまでは言えないのかもしれません。

小早川秀秋は問鉄砲がなくても裏切っていた

関ケ原の戦いで、徳川家康率いる東軍の勝利を決定的にしたのは小早川秀秋の裏切りでした。

通説では、どちらに味方するか迷っていた小早川秀秋徳川家康が鉄砲を撃ちかけ威嚇し、それに恐れた小早川秀秋が西軍の陣に攻撃を仕掛けたとされています。

しかし、徳川家康小早川秀秋の陣に鉄砲を撃ちこんだいわゆる問鉄砲も史実ではないとのこと。

合戦の前、黒田長政がすでに毛利と小早川に東軍に味方するよう説得しており、小早川秀秋の裏切りは最初から決まっていたようです。というより、最初から東軍の武将として小早川秀秋関ケ原に臨んでいたのです。

戦後、小早川秀秋は、西軍の大谷吉継の亡霊に悩まされ、間もなく亡くなったとされていますが、大量の飲酒が死因だったとする説が有力とされています。

また、毛利も関ケ原の戦いでは西軍を裏切り東軍に味方しましたが、戦後、領地が削られました。この時、吉川広家が自分の功績に代えて毛利の存続を徳川家康に懇願したことから、毛利は改易を免れたと伝わっていますが、現在では否定されています。

関ケ原の戦い後に豊臣家を滅ぼそうとしていたのか

関ケ原の戦い後、徳川家康は、豊臣家を滅ぼそうと決断したように思われていますが、これも、そうではないようです。

豊臣秀吉は、我が子秀頼と徳川家康の孫娘の千姫との縁談を遺言していました。徳川家康は、戦後、その遺言通り、千姫を秀頼に嫁がせています。これは、徳川と豊臣との強固な関係を築くことが目的だったとのこと。

徳川家康は、関ケ原の戦いに勝利した3年後に征夷大将軍となり江戸幕府を開いていますが、その時は、東の徳川と西の豊臣の二重公儀体制にあったとする説が出ています。徳川家康は、関ケ原の戦いの後すぐに政権を手に入れたのではなかったんですね。

徳川家康が豊臣家を滅ぼそうと考えたのは、もっと後のことです。豊臣家が滅亡する大坂の陣のきっかけとなったのは、方広寺の梵鐘に刻まれた銘が徳川家康を呪おうとしたものだと、黒衣の宰相と呼ばれた崇伝が難癖をつけたことだとされていますが、これも創作と考えられています。ただ、方広寺大仏開眼供養などが、両家の対立の原因となったことは事実のようです。


徳川家康については、知っているようで知らないことがまだいくつもあるのかもしれません。

徳川家康に限らず、戦国時代の逸話は二次史料によるものが多く、信憑性が疑問視されているものが多いです。それは、合戦中に当事者が記録を残すことが少なかったからのようです。

歴史上の人物を魅力的に伝えているのは、多くは二次史料です。そして、それは史実でない可能性があります。しかし、一次史料だけだと、歴史上の人物の姿が見えにくく、歴史がつまらないものに感じられますね。