人間は、何でできているのか?
水とタンパク質と脂質で人体の9割以上が構成されていると答える人もいれば、もっと細かく炭素原子が大部分を占めていると答える人もいるかもしれません。これらの視点は、人間を物質として捉えています。しかし、水とタンパク質と脂質をくっつけたところで人間を作ることはできません。仮にできたとしても、それが本当に人間なのか疑問がわいてきます。
人間を物質として捉えることに違和感を覚えるのは、人間には感情があるからなのでしょう。
人間の生き方は物理と物語に左右される
作家の五木寛之さんは、著書「元気」の中で、人間の生き方について興味深いことを述べています。
五木さんは、人間の生き方を左右するのは、「知ること」と「感じること」の二つで、前者を「物理」、後者を「物語」と区別しています。ジャンボ・ジェットに乗って海外旅行に出かけるのは物理の世界です。新幹線や自動車に乗るのも、携帯電話やインターネットを使うのも物理の世界です。科学技術が進歩すれば、これまでわからなかったことがわかるようになります。つまり、「物理」の世界が人間の生き方の中で幅を利かせてくるのです。
しかし、だからと言って人間が感情を失いロボットのようになることはありません。物語もまた人間には必要だからです。物理は知ることで証明される世界ですが、物語は共感で成り立つ世界であり証明することはできません。だからこそ、人間は夢を見るし、物語を信じているのだと五木さんは考えています。
証明できることなら、理解するだけで十分だ。しかし、証明できないことは、ただ信じるか信じないかのどちらかしかない。その「物語」に共感し、好ましく思えばそれを受け入れ、その夢を信じて生きる。
この世の中は、すべてこの二つの世界にわかれると考えていい。「物理」か、それとも「物語」か。
モノによって証明されるものは、すべて「物理」である。そして、言葉によって語られ、字によって書かれるものは、すべて「物語」である。
(49ページ)
物理と物語の間で揺れ動く
人間の生き方が、物理と物語の二つに左右されるということは、人間が生きていくためにはどちらも大切ということ。一方を捨てることはできません。しかし、生きていれば、時に物理に大きく傾くこともあれば、物語の世界に浸り続けることもあります。
人間の生き方とは、そういうものなのでしょう。そして、いつまでも、どちらか一方に傾いて生きていくことはできません。
「物理」の世界にかたよってしまうことを、科学主義におちいるという。「物語」の世界だけに生きることを神秘主義におちいるという。私たちはこの両方にふれてははじき返され、もう一方に揺れてはまた反対に動く。
どちらか片方にいって止まってしまったらおしまいである。生あるものは、つねに揺れうごきながら生きるのだ。
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こう考えると、迷い悩むことは、人間が生きていくために必要な心の動きであり、現在、物語の世界に傾いて生きている状態なのかもしれません。いずれは、物理の世界に傾くときが来ます。そうやって、物語と物理の間を行ったり来たりしながら、人間はまっすぐに歩いて行くのでしょう。
物理だけでは元気が出ない
どんなに科学が進歩しても、人間が何もかも知ることはできないかもしれません。だからこそ証明不可能な世界である「物語」で、わからないことを補完する必要があるように思います。
そして、人を元気づけるのもまた物語ではないでしょうか。
「脱サラして、昔から憧れていた歌手になるんだ」と言う人がいると、「歌手になって成功する確率は数%しかないからやめておけ」と止めようとする人が現れます。歌手で成功するのが難しいと言うのは、その通りでしょう。しかし、これは物理の世界の見方であり、物語の世界の見方ではありません。物理の世界で語る物事には、とても説得力がありますが、人間の感情を動かすのは難しいです。
難病患者に「あなたは3ヶ月以内に93%の確率で死にます」と言うのは物理の世界です。過去の統計から、間もなく病気で亡くなることがわかっている人にその事実を告げても元気が湧くことはそうそうないでしょう。
いま私たちを元気づけるものは決して「物理」ではないだろう。「物理」は十分すぎるほどに雄弁に語りつづけている。しかしその「物理」がいま証明してくれるものは、私たちを元気づけるより、かえって気持ちが沈むようなことばかりである。だから私は「元気」についての物語を書こうと試みるのである。この「元気」というのも、当然ながらひとつの「物語」にすぎない。
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物理の世界で語り続けられると、不安ばかりがつのってきます。起業しようとする人に対して、10年以内に9割以上が廃業する事実を突き付けたところで元気になることはありません。難病患者に死期を告げるのも同じでしょう。
事実は事実として受け入れるけども、他者から共感される方が元気になるものです。
私たちはなにかを信じて行動する。信じるためには証明は必要ではない。その「物語」に感動し、共感することで信じるのだ。
(54~55ページ)
- 作者:五木 寛之
- 発売日: 2005/09/01
- メディア: 文庫