幕末の宇和島藩に嘉蔵という細工物にかけて、おそろしく器用な職人がいました。
その器用さを褒められたことから、嘉蔵は提灯の張りかえを生業として生計を立てます。とは言え、提灯の張りかえだけでは食えないから、看板の下の方に「どんな細工物でもいたします」と書き添えていました。
嘉蔵は、司馬遼太郎さんの「酔って候」に収録されている短編小説「伊達の黒船」に登場します。
ある日、嘉蔵のもとにやってきた清家市郎左衛門が、黒船の話をはじめました。まさかこの後、蒸気船の建造に関わるとは、嘉蔵自身、思いもよらなかったことでしょう。
自走する箱車
市郎左衛門は、近頃、浦賀にやって来た黒船の話しを嘉蔵にします。そのことは嘉蔵も知っていました。
市郎左衛門の話しは、さらに続き、殿さまの伊達宗城が、あれを宇和島藩でも造ろうと言い出したことを語りました。そして、嘉蔵という提灯張りかえ職人なら、黒船を造れるはずだと家老の桑折左衛門に話し、嘉蔵が黒船建造に関わることになったことを告げます。
いきなりこのようなことを言われた嘉蔵は驚きましたが、断ることはできません。そこで、まず、歯車を組み合わせた自走する箱車を造り、それが、伊達宗城に献上されることになりました。
嘉蔵が造った箱車を見た宗城は、さっそく、嘉蔵に黒船建造を命じます。こうして、嘉蔵は、宇和島藩のために蒸気軍艦の建造に携わることになりました。
長崎で勉強し軍艦を建造
長崎にやって来た嘉蔵は、軍艦建造のための勉強を始めますが、大した成果を上げることができず、いったん、宇和島に戻ります。
その後、再び長崎にやって来た嘉蔵は、オランダの蒸気船に乗る機会を得ます。そして、動力がどうなっているのかを大福帳に写し取り、機関室の中もしっかりと見学して図面にしました。
嘉蔵は、写し取った図面を参考に蒸気軍艦の動力の製作に取り掛かります。ちなみに船体については、技術的指導に大村益次郎があたっています。
この頃、国内で蒸気軍艦を建造していたのは、宇和島藩だけではありませんでした。薩摩藩も国産に着手しており、自然と両藩は、国産第一号を目指して競い合うようになります。
嘉蔵は、失敗しながらも、どうにか蒸気軍艦の動力を完成させます。そして、見事、軍艦の試運転は成功。宇和島藩は、これに歓喜しました。
しかし、これより早く薩摩藩が蒸気軍艦の試運転に成功したことが、宇和島藩に伝わると、「嘉蔵はつらほどにないやつじゃ。薩州に負けたではないか」とののしられました。でも、薩摩藩は藩をあげて軍艦の建造にあたっていましたが、宇和島藩では、その動力を造るのに働いたのは、嘉蔵ただひとりだけでした。なので、そういった罵声を嘉蔵は、やがて、気にしなくなりました。
それよりも、嘉蔵は、もっと大きな動力をもう1回造りたいと思っていました。今、造り終わった動力では、軍艦を1時間も走らせると速度が遅くなるからです。
そのことを大村益次郎に愚痴交じりに言うと、
「石高相応の汽罐(かま)でござる」
と無愛想な答えが返って来たとか。
宇和島藩が、蒸気軍艦の建造に成功したのは、黒船来航から6年目のことでした。
- 作者:司馬 遼太郎
- 発売日: 2003/10/11
- メディア: 文庫