ウェブ1丁目図書館

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人の道に外れた行為で多くの財産を手にできるか

18世紀のイギリスの経済学であるアダム・スミスと言えば、「見えざる手」が有名です。

人々が個人の利益を追求しても、自然と調整され社会全体が幸福になるという理屈が、「見えざる手」です。この「見えざる手」がとても有名なので、アダム・スミスについては、それ以外のことを詳しく知らない人が多いのではないでしょうか。

そして、アダム・スミスの著作についても、『国富論』は知っていても、『道徳感情論』は聞いたことがない人が多いのではないでしょうか。

社会秩序を導く人間本性は何か

経済学博士の堂目卓生さんの著書『アダム・スミス』では、『道徳感情論』と『国富論』について一般向けに解説されています。一般向けとはいっても、内容が少々難しいので途中で読むのをあきらめてしまう人もいるかもしれません。

道徳感情論』の主な目的は、社会秩序を導く人間本性は何かを明らかにすることです。そして、社会秩序とは、社会を構成する人全員が何らかのルールにしたがうことにより、平和で安全な生活を営むことです。

人間は、自分の利益を考える存在なので、個人の利益追求が進むと一方で貧しくなる人が生まれ、社会秩序が乱されそうです。そのため、法律によって人々の際限のない利益追求を抑止する必要があると考えられます。

しかし、人間は、利害に関係なくとも、他人の運不運や境遇に関心を持ち、それを観察することで自分も何らかの感情を起こす存在であることから、際限のない利益追求は行らないのではないかとアダム・スミスは仮説を立てました。

当事者と観察者

誰もが、出来事の当事者になることもありますし、観察者となることもあります。

例えば、喧嘩をしている人を見て、一方が相手を殴った時、「暴力は良くない」と思うことでしょう。そして、自分が喧嘩の当事者になった時には、もしも自分が公平な観察者だったら、相手を殴ることをどう評価するか考えることでしょう。

人は、観察者としての経験、当事者としての経験を通じて、自分の感情や行為について公平な観察者であれば、どのような判断を下すかを想像し、公平な観察者が是認するように行動しようとします。だから、公平な観察者の立場で喧嘩の時に殴るのは良くないと判断できれば、当事者の自分は相手を殴ることを慎むはずです。

アダム・スミスは、胸中の公平な観察者の判断にしたがう人を賢人と呼び、つねに世間の評価を気にする人を弱い人と呼んでいます。自分が賢人と弱い人のどちらに当てはまるのか考えた時、ほとんどの人は、ある場面では賢人であっても、別の場面では弱い人になると思います。多くの人が、賢人と弱い人の両面を持っているのです。

富が増えれば幸福度が増すのか

お金持ちになれば幸福になれるかは、いつの時代も飽くことなく議論されています。お金がなかった時代なら、それは富と言い換えることもできます。

人は、生活に困らない必要最低限の富があれば、それで良いではないかと言われても、より多くの富を追い求めてしまいます。快適さを満たした状態でも富を追求するのは、他人からの同感や賞賛、あるいは尊敬や感嘆のためです。これをアダム・スミスは虚栄と言っています。つまり、見栄です。

見栄を張っても幸福度は高まらないことを知っているのが賢人です。必要最低限の富さえあれば、それ以上の富を求めても幸福度は上がりません。ところが、弱い人は、周囲から賞賛されたいため、富を求め続けようとします。

賢人でも、最低水準の富がなければ、さすがに幸福を感じることはできません。貧困による悲しさや苦しみをなくすためには、最低水準の富を得る必要があります。

経済発展の意味

個人が貧困を避けるためには、勤勉や節約といった個人の努力だけでは不十分な場合があります。自分が属する社会の経済が衰退している状況では、努力しても最低水準の富を手にできない人の数は増えていきます。

経済発展の意味はここにあります。

経済が発展している社会では、最低水準以下の富しか持たない人の数を減らせます。だから、人々が富を追い求めた結果、経済が発展することは好ましいことと言えます。地主が贅沢品を買うために多くの小作人を雇って農作業をさせ、生活必需品を分配するのであれば、社会全体の幸福度が上がります。すなわち、社長が生活していくために最低限必要な給料を従業員に支払うことで、多くの人が幸福を感じられるようになるのです。

賢人は、最低水準の富があれば幸福を感じられます。それ以上の富を求めるのは見栄でしかなく、幸福度を上げることはできないと知っています。

ここで、人の道を踏み外して、多くの富を得ることができるかを考えてみましょう。

人類は、富と地位だけでなく、徳と英知に対しても普遍的な尊敬の念を持ちます。悪行を重ねる人に富を持ってほしくないと思う一方で、徳と英知を持つ人には富と地位を与えたいと思うものです。だから、より多くの富を得たいと思う「財産の道」を歩むためには、人々から尊敬される「徳の道」も歩む必要があります。

経済発展のためには競争が必要です。しかし、人の道を踏み外して競争に勝つことは、「徳の道」から外れ、「財産の道」からも遠ざかってしまいます。競争が受け入れられるのは、フェア・プレイのルールに則って行われる時だけです。

フェア・プレイのルールに則った競争だからこそ、見えざる手が働くのです。