ウェブ1丁目図書館

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四国と九州の仏教寺院を訪ねた著作を読み神仏習合の意味を考える

日本全国に仏教寺院は、コンビニ以上の数があります。

新しいお寺もあれば、平安時代奈良時代に創建された千年以上の歴史を持つお寺もあります。宗派もいろいろあり、調べていくと、それぞれに個性があることに気づきますね。

ご当地グルメを求める旅をする人がいるように各地域にお寺を求めて旅をする人もいます。日本一周寺院の旅を経験した人は、いったいどれくらいいるのでしょうか。

四国と九州の寺院を求めて

作家の五木寛之さんは、全国100ヶ所の寺院を巡る旅を体験しています。

その体験を著書にしたのが『百寺巡礼』です。第10巻では、四国と九州の10ヶ所のお寺を旅した記録がまとめられています。

先ほども述べたように仏教には様々な宗派があるので、その教えや建造物には宗派の個性があります。また、お寺には、その土地の地域性もあり、同じ宗派のお寺だからといっても、どこも同じではありません。

寺院を巡る旅は、その地域に根付いた文化や人々の営みも知ることができるのです。

梅林寺

久留米の梅林寺は、元和7年(1611年)に創建された久留米藩主の有馬家の菩提寺です。臨済宗妙心寺派専門道場ということですから、俗にいう禅寺です。

禅寺には、大きな台所があるところが多いですが、現在では台所を使用していないところもあります。禅寺に拝観に行くと、今は使われていない台所を文化財として鑑賞できることがありますね。

梅林寺では、今でも台所が修行のために使われているとのこと。托鉢を終えてお寺に戻ってきた雲水たちが、布施を受けた米を桝の中に1粒も無駄にせず丁寧に入れていくのを見て、五木さんは、この飽食の時代に忘れられない光景を見たと述べています。

お寺には、現代日本人が忘れかけている光景が今も残っているのです。

善通寺

弘法大師空海と縁のあるお寺と言えば、高野山金剛峯寺や京都の東寺がすぐに思い浮かびます。小さなお寺まで含めると、空海とゆかりのあるお寺は、全国に数えきれないほどありそうです。

大師堂という建物があるお寺には、弘法大師の像が祀られていることが多いですね。

金剛峯寺も東寺も、弘法大師三大霊跡に数えられています。そして、もう1つは、香川県にあり、その名を善通寺といいます。

善通寺が完成したのは、弘仁4年(813年)とのことですから、空海が活躍していた時代です。東寺のように五重塔があり、金堂、講堂、常行堂などの堂宇もあったのですが、戦国時代に兵火で焼失しています。その後、元禄13年(1700年)に丸亀藩主の支援により金堂が再建されたとのこと。

善通寺は、空海ゆかりのお寺なので、真言宗なのですが、五重塔の近くには、浄土宗の開祖の法然上人と関係がある石塔があるそうです。その石塔は、法然上人逆修塔(ぎゃくしゅとう)といいます。

法然上人は、建永2年(1207年)に朝廷が念仏停止令を出したことを受け、四国の土佐に流罪となりました。しかし、すでに75歳と高齢だった法然上人は、土佐に向かわず讃岐(香川県)にとどまりました。その時、法然上人は、生前にあらかじめ自分のための仏事を行い菩提を弔う逆修をしました。その地が、善通寺だったんですね。

真言宗のお寺に浄土宗の開祖が立ち寄ったところが興味深いです。

善通寺には、クスノキの御神木があるそうです。御神木と言えば、通常は神社で見かけるものですが、空海は、在来の神々を決して無視せず融和して共存する道を選んだようです。法然がこの地にとどまった理由がわかる気がします。

霊山寺

四国と言えば、四国八十八箇所巡りが有名です。

その第一番札所となっているのが、徳島県鳴門市にある霊山寺(りょうぜんじ)です。霊山寺は、天平年間(729~749年)に聖武天皇の発願で行基が開いたお寺です。後に空海が滞在し、釈迦如来を刻み、天竺の霊山を移すという意味で霊山寺命名したとのこと。

四国八十八箇所を巡るお遍路さんといえば、白装束に杖を持った姿を思い浮かべます。お遍路さんが持つあの杖は、金剛杖といい、弘法大師空海の分身とされています。金剛杖を持って旅することで、常に空海と2人でいることを感じられるそうです。また、遍路の途中で、力尽き亡くなった場合には、金剛杖を墓標代わりにしたのだとか。

白装束は、清浄を現すと同時に死装束の意味もあるのではないかと五木さんは考えています。今は、車やバスで四国八十八箇所を巡ることができますが、そのようなものがなかった時代には歩くしかなく、道半ばで倒れた人がいたはずです。昔の遍路は、そう簡単にできるものではなく、それゆえ強い決心がなければできなかったのでしょう。

富貴寺

大分県豊後高田市にある富貴寺は、宇佐神宮の神宮寺で、創建は神亀2年(725年)です。日本の神仏習合では最も早い例だといわれています。

明治になって、神社とお寺が分離される神仏分離令が出され、お寺と神社が一緒の場所にあるのは珍しくなりましたが、江戸時代以前にはお寺と神社が一緒にあるのは普通のことでした。

この富貴寺を訪ねた五木さんは、近代とは分別の時代だと述べています。あらゆるものを分類整理し制度化するのが近代という時代で、それ以前の神棚と仏壇が同居する光景は許さなかったのだと。

「和を以て貴しとなす」という言葉を残した聖徳太子。彼は、なぜ、そう言ったのか。

五木さんは、海外から伝来した仏教の仏を神道の神と共存させるためにその言葉を残したのだと考えています。神仏習合とは、まさに「和を以て貴しとなす」を具現化した光景だったのでしょう。

日本全国に多くの仏教寺院があるのは、聖徳太子が海外から伝来したものを遠ざけないようにし、日本国内に調和させようとしたからなのかもしれません。