読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ウェブ1丁目図書館

読書で得ること感じること。ここはウェブ1丁目にある小さな図書館です。本の魅力をブログ形式でお伝えしています。

時間は捏造される

ある事象が起こった時、人はなぜそれが起こったのかを考えます。

因果関係を見つけるというのでしょうか。「Aという事柄が起こったのは、その前にBという原因があったからだ」といった具合に。

結果に対する原因をひとつひとつ見つけ出して説明することは、とても論理的なように思います。そして、無理なく原因と結果を説明できれば、誰もがそれに納得します。いや、中にはどんなことにでもケチをつける人がいますから、誰もが絶対に納得することはないのでしょうが。

原因と結果を論理的に説明されると納得しますし、疑問に思っていたことがすっきりとします。しかし、どんなに原因と結果を論理的に説明できても、それは妄想でしかないのかもしれません。

思考には価値判断が着いてくるもの

人は事実をありのままに見るのが難しい生き物だと思います。道路に置かれたカメラが淡々と事実を映すように、人は事実を淡々と見ることはできないのではないでしょうか?

臨済宗妙心寺派福聚寺住職の玄侑宗久さんは、「大局的に見るために、あらゆる『考え』とそれに見合った身体症状を排除し、心身をニュートラルに戻そうというのが禅なのだ」と著書の「禅的生活」の中で述べています。

目を閉じて焼きそばを思い浮かべる時、人によって思い浮かべる焼きそばは違います。皿や鉄板の上に焼きそばが盛られた状態を思い浮かべる人もいれば、テーブル、部屋の大きさなど周囲の状況も一緒に思い浮かべる人もいます。

上から見たように思い浮かべた人は、じつは焼きそばのことを「考えた」のである。やがてその中に入れる具のこどなど考えだすのかもしれない。
一方の焼きそばのある風景全体を思い浮かべた人は、イメージの世界に遊んだのであり、別な言葉でいえば「瞑想」したということになる。
(52~53ページ)

なんか難しいですね。

禅の世界では、どうも「考える」と「瞑想」とは違うようです。私は、「考える」という言葉に論理性を感じます。そして、「考える」ことで真実が理解できるようにも思います。

でも、そうではないようです。

宗久さんによれば、「考える」よりも「瞑想」する方が、ありのままの事実を見ることができるのだとか。

価値判断がなされないから事実が見える

「考える」ことは、どこかに価値判断が入り込んでいます。

どのような価値判断が入るかは、その人のこれまでの経験や学んできたことに左右されるでしょう。そして、経験豊富で多くのことを学んできた人ほど「考える」ことが得意であり、反対に瞑想することは苦手になっていくのかもしれません。

ともあれ実際に「瞑想」してみると分かるが、そのときあなたは目に見える何ものをも言語化していないし、なんらの価値判断もしていない。さっきの「焼きそば」瞑想について言えば、想い浮かべた部屋も綺麗でもないし汚いわけでもなく、ただ「ありのままに」浮かんで見えているに過ぎない。つまり価値判断がなされないからこそ、全体が浮かんでくるのである。
(53~54ページ)

ありのままの事実を見ようとすると、頭の中の価値判断を余所に置いて、瞑想した状態にならなければ難しいということでしょう。

心身を上下左右どの方向にも偏らず、真ん中に持ってくるニュートラルな状態。

瞑想とは、このニュートラルな状態を作り出すことであり、「はっきり、しかも大局的」に物事を見れる心身の安定感を保つことと言えそうです。

人間は瞬間に生きている

時間は常に未来に向かって流れています。決して過去に戻ることはできません。

だから、人間は未来に向かって流れる時間の中を生きているように感じるのですが、どうもその感じ方も自分の価値観が作り出しているようです。道元禅師は、人間は常に瞬間に生きていると、正法眼蔵の中で述べています。無数の瞬間どうしには本来一貫性がないのだそうです。

具体的に申しあげよう。我々は普通に「きのう寝て、今日起きた」と言う。しかしじつは寝たそのときは「今日」だったはずであり、起きたときも「今日」なのである。しかし我々に染みこんだ時計の常識は瞬時にその二つの時間を「排列」するから、「きのう寝て今日起きた」ことになる。じつはそのとき初めて、きのうから今日に時間が流れたのである。
(57ページ)

時間が流れたと感じるのは、現在から過去を振り返った時です。そして、過去から現在まで時系列で物事を考えようとしたとき、時間を捏造し始めます。

無数の瞬間どうしには一貫性がないのにある事象が起こった原因を考える時には、無数の瞬間から、その事象と関係がありそうな瞬間を切り取って結果との因果関係を見つけ出そうとします。でも、すべての因果関係を見つけ出せるわけではないので、無数の因果関係から適宜に選び、自分の価値観に当てはめて、「あの時のあれが原因で、この結果が生じたのだ」と結論を導き出しているだけなのです。

この時間の捏造をやめることが、瞑想なのでしょう。

禅はそうした「物語」に仕立てられた時間と自己を、瞑想のなかで解体しようとする。徹底的「うすらぼんやり」のなかでは時間も流れず、したがって自己も恣意的な「物語」に嵌めこまれていない全的存在なのである。
(59ページ)

未来を選択する基準は与えられない

宗久さんは、「未来を批評的に観測してどれかを選ばなければならない場合、禅はほとんどその基準を提供してくれない」と述べています。

どの会社に就職すべきか、誰と結婚すべきか、そういったことを考える基準を禅の教えから導き出すのは難しいようです。それは、禅の中に「知足」の思考があるからかもしれません。「足るを知る」ということですね。

禅は戦争になって爆弾に逃げまどう環境になっても、あるいは病気で入院していても、その現状のままになんとか活路を見いだしてしまう「知足」の思考なのだ。
(中略)
望んで選んだわけでもない場所に住み、たまたまご縁で巡り会った仕事をしている人だって大勢いるだろう。そうした人々が今の足場を踏みしめて立つためにこそ、禅の考え方は有効なのである。
(203~204ページ)

現状に満足していない人は、たくさんいます。満足のいく人生を送っている人よりも、現状に不満を持って生きている人の方がはるかに多いのではないでしょうか?

時間を捏造すればするほど、不満は増えていくように思います。

価値観というメガネをはずして事実を見た時、人は時間の捏造をやめ、現実を受け入れるのでしょう。

禅的生活 (ちくま新書)

禅的生活 (ちくま新書)

広告を非表示にする