ウェブ1丁目図書館

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病気を治すことは不可能。だから治療よりも養生が大事。

病気になれば、病院に行って薬を処方してもらうなり、治療をしてもらうなりしますよね。そして、症状が無くなれば病気が治ったということになります。

でも、しばらくたつと、また同じ症状が出て病院に行ったという経験をされている方は多いのではないでしょうか?治ったはずなのにおかしいなと思いながら通院するわけです。最初に薬を処方されたり治療されたりしたときは、確かに症状が治まっているのに再び同じ症状が出るということは、実は完治していないということです。

作家の五木寛之さんは、「病気に完治なし」と著書の「養生の実技」の中で述べています。そして、治療よりも養生(ようじょう)の方が大切なのではないかとおっしゃっています。

たくましい木の枝ほど折れやすい

現代は、何かとストレスの多い社会だと言われます。だから、日常生活から、いかにしてストレスを無くしていくのかといったことが重視されると同時に、ストレスに負けないように心身を鍛えることが大事だとも言われていますね。

確かにその通りだと思います。

健康のことを考えるなら、仕事のストレスを減らすためにどうすれば良いか工夫することが大事ですし、ストレスを感じた時には、趣味などで解消することも大切です、そして、何より少々のストレスに負けないように力強く生きることが重要です。

しかし、そのように強く生きることを心がけている人ほど、ある時、ポキッと気持ちを支えている枝が折れるものです。

雪国では、冬になると太くたくましい木の枝に雪が降り積もります。毎年冬になれば、その枝に必ず雪が乗っかってきます。すると、ある時、その重さに耐えることができず枝は折れてしまいます。その木がたくましければたくましいほど、枝が強ければ強いほど、ある時、重圧に屈して折れてしまうのです。

ところが、弱い枝の場合はそうなりません。雪が降り積もっても、途中で枝が曲がり、するりと雪が地面に落ちます。そして、雪を体から落とした枝は、しなりを効かせて元の状態に戻ります。

これは、人の場合も同じなのではないでしょうか?

重圧に耐えようとする強い心を持った人ほど、ある時、心がポキッと折れやすいものです。反対によく萎える心というのは、柳の枝のように折れることはありません。

曲がることのない枝は、どんなにつよくとも折れる。史上最高の三万四千四百二十七人という昨年の自殺者の数は、ポッキリ折れた心の数だといっていい。
同じように、つよくて固い体もおれる。屈すること、しなうこと、曲がることは、体にも大事なことなのだ。(13ページ)

養生の実技が出版されたのは2004年なので、上の自殺者の数は2003年のものですね。

五木さんの考え方によると、自殺した人は弱かったから自殺したのではなく、誰よりも強かったから、ある時、心の枝が折れてしまったということになります。そう考えると、重圧を跳ね返そうとするよりも、重圧に負けてしまい、柳の枝のようにしなう心を持つ方が、心身の健康には良いといえそうです。

重圧に負け続けながら生きていくための養生

五木さんは、腰痛や偏頭痛など、様々な持病を抱えているそうです。それでいて、眼科と歯科の検査以外では病院に行くことがないとのこと。

普通に考えると、持病を抱えている人が病院に全くいかなければ、長生きできないと思ってしまいますが、五木さんは、すでに日本人男性の平均寿命以上に長生きをされています。そこには、治療ではなく養生が健康にとって大切だという五木さんの考え方があるように思います。

人間は生まれた日からこわれていく。老いるとは、そういうことだ。しかも、不自然で、非合理な部分も数かぎりなくある。神秘的といえるほどすばらしい働きもそなえながら、同時になんとも情けない幼稚な部分もある。
そこを苦心して、少しでも良いコンディションをたもち、故障をおこさないように工夫するのが、養生ということだろう。(28ページ)

先ほども述べたように「病気に完治なし」というのが、五木さんの考え方です。だから、ひとたび病気になってしまえば、その病気と付き合い続けるしかありません。重圧に屈しないように体を鍛え、気を張って生きていると、ある時、枝が折れるように体が故障してしまうことがあります。そうならないようにするのが、養生ということなのでしょうね。

養生するためには、自分の身体から発している声に耳を傾けることが大切です。それは、他人に教えられるものではなく、自分で意識して理解するしか方法はありません。

五木さんの場合は、偏頭痛が起こるとき、決まった前兆があるそうです。しかし、その前兆がわかったところで、偏頭痛を避けることはできません。でも、心の用意と準備はすることができます。

たとえば、そういう予兆のあったときには風呂に入らない。またアルコールは飲まないようにする。できれば睡眠もたっぷりとる。無理な仕事はひかえて、早めにスケジュールを調整しておく。
そのほか、脂っこいものは食べない、とか、中華料理は避けるとか、赤ワインは口にしないとか、私個人の体験的な対策はいろいろだ。(33~34ページ)

こういった対策をすることで、偏頭痛を治(なお)すことはできなくても、治(おさ)めることはできるそうです。医学的、理論的になぜそれで偏頭痛を治めることができるのかを説明できなくても、自分の体験と直感は理論的な証明よりも大事だというのが、五木さんの考え方です。

僕もこのような考え方には共感できます。どんなに優秀な医師でも他人なので、自分の体の感覚を理解することは不可能です。人の体はそれぞれ違うものなのだから、万人に有効な治療法というのはないでしょう。それなら、自分自身で、身体の声に耳を傾けて、できるだけ苦痛を和らげる方法を身に付けた方が、効果のない薬を飲んだり、手間のかかる治療を受けたりせずに済むはずです。

自分なりの養生法を見つける

養生というのは、その人の経験によって身についていくものだと思います。だから、若い人よりも年配の人の方が人生経験が多い分だけ、自分なりの養生法を確立することができるはずです。

参考までに養生の実技の巻末に掲載されている五木さんの養生法をいくつか紹介しておきます。

  • 同じ国籍の料理を毎日続けて食べない。
  • 片方の手だけを使わない。左右両手が同じ感覚で使えることが望ましい。重いカバンを右手だけでさげない。
  • 一日に何回か大きなため息をつく。深く、たっぷりと、「あーあ」と声をだしながら。深いため息をつく回数が多いほどよい。
  • 人間は地球という生命体の寄生虫。その虫にまた沢山の寄生虫が共生している。そのような寄生生物をすべて殺してしまえば、宿主も死ぬ。
  • 十年前の医学界の常識(真理)は、今の常識ではない。今の常識は十年後の非常識となる。それが進歩だ。
  • 医学にかぎらず、統計はすべてフィクションである。数字の選びかたにすでに工夫がなされているからだ。統計は面白いゲーム程度に考えたほうがいい。
  • あらゆる養生訓は、すべて他人の養生法である。世界にただ一人の自分には、必ずしも役に立たない。それを参考にして、自分だけの養生法を工夫しよう。

こういった五木さんなりの養生の実技が100個掲載されています。人それぞれ参考になる部分は違うでしょう。全く参考にならないという人もいるはずです。

僕の場合は、「寄生生物をすべて殺してしまえば、宿主も死ぬ」という部分が、自分の考え方と一致するなと思いました。人間の体には、自身の細胞よりもはるかに多い細菌たちが棲んでいます。だから、これら自分の体に寄生している細菌たちを虐待すると、きっと、自分自身を虐待することになると思います。


五木さんは、100個の養生の実技を紹介されていますが、養生というのは気休めだとも述べています。自分にはこれが最も合っているんだと頑固に考えないあたりが、五木さんの言う「しなう心」ということなのでしょうね。